2012年02月05日

『江戸空間』

『江戸空間−100万都市の原景』(石川英輔)は,江戸時代に対する認識を変革するに示唆的である。抜粋して紹介しておく。

江戸の町奉行でも,旗本に準ずる階級の与力50騎,それ以下の御家人階級の同心240人。幕末になって,同心の定員が増員されたというが,それでも全部でたったの320人か30人にすぎない。町奉行が治めるのは江戸の町人約50万人だが,あきれるほど安上がり行政府だったのである。

江戸市中の治安を担当する警察官,俗に<三廻り>といわれた<定町廻り>略して<定廻り>と<臨時廻り>と<隠密廻り>の三役だった。三廻りは町奉行に直属していたので,下級武士である同心としては最高の地位でもあった。
このうち,毎日奉行所にそれぞれ六人,わずか十二人しかいなかった。この十二人は,奉行所の月番,非番に関係なく,毎日決まったコースを重複しないようにパトロールしていた。
臨時廻同心も十二人いたが,こちらは定廻りを務め上げて五十歳以上になったベテランが,定廻りの見落としがちな部分を見て廻る。隠密廻りは,臨時廻りを務め上げた中から選んで任命されるので,犯罪人を逮捕することはなく,町奉行直属の情報官のようなものだった。

いずれにせよ,普通の警察の仕事をする正規の警察官が全部で二十四人,いわゆるお巡りさん役は,たったの十二人しかいなかった。空前絶後の弱体警察というほかない。
実際はその反対で,江戸はおよそ犯罪の少ない町だったから,わずかな人数の警官しか必要なかったのである。テレビの捕り物帖と違って,殺人事件などせいぜい一年に一度あるかないかで,…享保年間には,伝馬町の牢屋に被疑者が一人も入っていなかった時期があるとさえいわれるほどだ。

江戸の治安がわずか十二人とか二十四人とかの警察官で維持できた理由は,基本的に同じ民族が寄り合ってのんびり暮らしていたからだが,犯罪が起こりにくいようなさまざまな組織が作ってあったからでもある。まず,一つの町には自身番という町内会の事務所のような小屋が一ヶ所あった。これは,地元で番人を出して維持しているのだが,交番と消防と区役所の出張所のような役目をはたしていた。

…定廻りの同心は,自身番から自身番を巡回して行くだけで,変わったことがあるかどうかを簡単に知ることができた。しかも,あちこちにいわゆる岡っ引きがいて,怪しい者がいれば通報してくれる。

江戸時代の場合は,もともと犯罪が少なかったところへ,幕府の方針が重刑主義だったのが,一層ブレーキをかけたと思われる。とにかく,十両あるいは十両相当以上の物を盗むと死罪である。幕府の刑法である『御定書百箇条』の中に,

「手元に有之品,風と盗取致候者,金子は十両,雑物は代金積十両位より以上は,死罪」とあって,十両以上盗めば首を切られてしまったのだ。スリ(巾着切り)は,三回までは入れ墨をされるだけだが,四回目には金額に関係なく死罪だった。
また,放火犯は,放火した火が燃え上がれば火罪つまり火あぶりの刑,燃え上がらなくても引き廻しの上死罪というから,大変な重刑である。

他人に向けられた暴力に対して寛大であれば,いずれその牙は自分に向けられる。素朴な江戸人にはそのことがよくわかっていたはずである。貧しい時代の十両は,普通の家族が半年は生活できる大金だった。盗まれた側にとっては,命にかかわる可能性のある金額なのだ。放火は,燃えやすい江戸の市街では大勢の人を殺す結果になりかねなかった。

いずれにせよ,江戸は,コソ泥を未決監に入れる手続きのために,かなり高官である町奉行自身がいちいち立ち合える程度の犯罪しか起こらない都市だったのである。

現代の社会状況をもとにした認識,感覚,価値観で江戸時代を判断すべきではない。このことを実感させてくれる。また,多角的・多面的な考察の重要性も実証的に示唆してくれる。


昔に比べて歴史の教科書の内容は随分と削減された。その最たるものは世界史記述の少なさであり,呆れるほどだ。授業の中で資料集などを使って補足はしているが,それでも少ない。数百年の単位で割愛されている。ローマ帝国の次は十字軍とルネサンス,その次は市民革命といった簡略というより無茶である。さらに,アメリカ独立戦争と南北戦争がコラムのように記述されている。日本史の間に世界史が挟み込まれている感じで,生徒は混乱するだけだ。
さらに,高校によっては,世界史は選択だから習わずに大学に行く。それで国際化社会とはよく言ったものだと思う。

私は,できるだけ同時代史的な解説をするように心がけているが,本書は同時代史の比較が多用されていて,実に示唆的である。授業のネタにも活用できる。

たとえば,江戸時代の貧しさや農民の生活苦の説明として「飢饉」が例とされるが,教科書や資料集には江戸時代の日本についてしか書いていない。生徒の脳裏には江戸時代の貧困が飢饉という象徴的なイメージとともに定着する。ヨーロッパと飢饉は結びついていない。絶対王政の圧政や産業革命による労働者の貧困はイメージできても,飢饉など想像できないだろう。

だが,実際は近代以前のヨーロッパの方が飢饉は多発している。1846〜7年の飢饉では人口820万人のアイルランドで100万人が餓死している。

また,宗教政策では織田信長の延暦寺焼き討ちやキリシタンの迫害が残酷さの代名詞として取り上げられるが,ヨーロッパでは宗教裁判が制度として確立(1231年)し,15世紀末には魔女裁判も始まった。異端の名のもとで数万とも数十万ともいわれる人間が殺されている。宗教裁判が廃止されたのは1700年代中頃である。

さらに,ヨーロッパ諸国は,布教をかねて対外侵略を繰り返している。宣教師を先頭にアステカ帝国やインカ帝国を征服し,メキシコやペルーの現地人を大虐殺し,残酷な奴隷労働を強制した。

単純に比較して,どちらが優れているかではなく,多角的・多面的な考察の必要性を述べているのだ。部落史においても,日本の賤民や被差別民への差別を考える場合,同時代史だけでなく西洋史における差別の問題,たとえば魔女裁判なども考察する必要があるように思う。宗教のちがい,民族のちがいだけでなく,同じキリスト教内にあっても「異端」の烙印によって人間と見なされず「魔女」とされて社会外に排除されるどころか火炙りによって殺害されたのだ。差別とは何であるかを「異端」をキーワードに考えてみることも重要である。

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2011年04月30日

神戸事件

      きのふみし
      夢は
      今更引かへて
      神戸かうらに
      名をやあけなむ

              正信

是,先臣瀧善三郎絶命の歌也
聞くに善三郎の死に臨むや顔色変わらず,
外夷これを見るに,膽落ち気沮う。
或いは涕泣する者あるという。
語って曰く,死は或いは泰山より重く鴻毛より軽し。
善三郎の死,いわゆる泰山より重きの類い,
ああ,これを読んで何人か泣かざらん,
況んや君臣の際においておや。明治四年辛未正月
勤王の詔忠信に下り師兵闕に趨る。
これを書しもって後世にに告ぐ。

日置忠信識す

正信とは,瀧善三郎の諱であり,日置忠信は帯刀の息子である。これは,善三郎の辞世歌であり,忠信の識した由来書とともに岡山藩主池田家に伝わったものである。


神戸事件とは,慶応4年1月11日,神戸の三宮神社前において備前藩兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させ,居留予定地の調査をおこなっていた欧米諸国公使らを射撃した事件である。

慶応4(1868)年1月3日,明治新政府は,旧幕府側の尼崎藩を牽制するため,備前(岡山)藩に摂津西宮の警備を命じた。備前藩では,1月5日までに約2千人の兵を出立させ,家老日置帯刀(ひきたてわき)率いる隊列は陸路を進んだ。

1月11日,備前藩兵の隊列が神戸三宮神社前を通りかかった時,付近の建物から出てきたフランス人水兵2人が列を横切ろうとした。これは,武家諸法度に定められた「供割」(ともわり)と呼ばれる非常に無礼な行為で,これを見た第3砲兵隊長滝善三郎が槍を持って制止に入った。しかし,言葉が通じず,強引に隊列を横切ろうとする水兵に対し,滝が槍で突きかかり軽傷を負わせてしまった。これに対して,民家に退いた水兵数人が拳銃を取り出し,それを見た滝が「鉄砲,鉄砲」と叫んだのを発砲命令と受け取った藩兵が発砲,銃撃戦に発展した。

現場にいたイギリス公使ハリー・パークスは激怒し,各国艦船に緊急事態を通達した。アメリカ海兵隊,イギリスの警備隊,フランスの水兵が備前藩兵を居留地外に追撃し,生田川の河原で銃撃戦となった。備前側では,家老日置が藩兵隊に射撃中止・撤退を命令した。

神戸に領事館を持つ列強諸国は,同日中に,居留地(外国人居留地)防衛の名目をもって神戸中心部を軍事占拠し,兵庫港に停泊する日本船舶を拿捕した。この時点では,朝廷は諸外国に対して徳川幕府から明治政府への政権移譲を宣言しておらず,伊藤俊輔(後の伊藤博文)が折衝に当たったが,決裂した。

1月15日,明治新政府は,開国和親を朝廷より宣言させるとともに,公家の東久世通禧を代表として欧米諸国の外交官と事態の沈静化に向けた交渉を開始した。

このとき,欧米列強は初めて正式な「王政復古」の通知を受けた。東久世は,天皇がすでに締結した条約すべてを尊重する意向であること,日本滞在の外国人すべての安全を保証すると確約した。

これに対する諸外国側の要求は,日本在留外国人の身柄の安全保証と,神戸事件の日本側責任者を厳重に処罰すること,すなわち滝の処刑であった。外国人側の被害に対して処罰が重すぎるとの声や,滝の行為は武士として当然であったとの意見も強かったが,ロッシュをはじめとする列国公使団の強硬な要求に明治新政府は屈した。

結局,2月2日,備前藩は諸外国側の要求を受け入れ,2月9日,兵庫の永福寺において列強外交官列席のもとで滝を切腹させるのと同時に備前藩部隊を率いた日置について謹慎を課すということで,一応の決着を見たのである。

善三郎は,事件の責任を一身に背負って切腹して果てた。享年32歳であった。その最期は古式に則った作法どおりの見事な切腹であったと伝えられている。この様子は,立ち会ったイギリス公使館員ミットフォードの著作によって海外に広く知られることになった。

岡山藩は善三郎の4歳の長男を日置家から池田家へ500石で取り立て,その忠義を称えた。


明治初期の外交問題を考える際に重要な事件であると思うが,教科書には本事件や「堺事件」の記述はない。

先日,神戸を訪れたとき,事件が起こった三宮神社を訪ねた。数人の外国人観光客が門前にて写真を撮っていたが,事件のことなど知らないだろう。

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2010年10月12日

『お江戸の役人』

中江克己氏の新著がPHP文庫より出版された。彼の「江戸学」に関する著書は,わかりやすく整理されていて,基礎知識として理解するのに最適と思っている。

本書も,江戸幕府の主立った役職を簡潔にまとめていて参考になる。

同様の書籍に山本博文氏の『江戸の組織人』(新潮文庫)がある。両書から江戸時代の役人の仕事や役割を理解できるだろう。

小説や映画,テレビの時代劇に登場する役人がどのような仕事を担当し,どのような地位にあり,上下関係や指揮命令系統はどうなっていたか等々をわかっているかいないかで内容の理解もちがってくる。

教科書ではここまで詳しくは教えない。簡単な江戸幕府の仕組み(職制)を教えるだけだ。それでは十分に江戸時代を理解することはできないが,だからといって職制を詳しく教えることも時間的にむずかしい。そのためか,生徒は現代の政治組織で江戸時代の職制を理解しようとする。これでは誤解を生みやすい。根本的にちがうということが理解しにくい。実は,このことは部落史の理解にも関係している。支配関係と指揮命令系統,江戸と各藩の相違などとも深く関係している。

せめて複雑な組織と職制,身分と俸禄など最低限の基礎知識は知っておく必要がある。


同じく最近,文庫版として山本博文氏の『大奥学』が出版された。これも複雑な大奥の内実を平易に解説しており,「江戸学」としての基礎知識を得るには最適な本である。

買い忘れていた中江克己氏の『お江戸の職人』(PHP文庫)が届いた。文庫や新書でも送料が無料になるAmazonをよく利用している。

中江氏のPHP文庫シリーズは,ほとんどが書き下ろしの新刊で,しかも「江戸学」がジャンル別・項目別にわかりやすく整理された解説書であるから,基礎知識を得るには最適である。さらに詳しく知ろうと思えば,関係の専門書を購入して読めばいい。

「江戸学」を単なる「雑学」の一種と見なす人間もいるが,私はそうは思っていない。江戸時代の幕府政治から庶民の生活までを包括的に把握する上で,基礎的知識は不可欠である。

身分制度や被差別民の実態について,その歴史的背景や周辺の実態を知るためには欠かすことのできない学問だと思う。

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2010年09月12日

遊女と遊郭の略史

別冊歴史読本『歴史の中の聖地・悪所・被差別民』に所載されている「悪所理解のための遊女・遊郭の略史」(竜野努)をもとに,遊女の歴史をまとめておきたい。


春を鬻ぐ女性の歴史は,近世以前と以後では公権力の管理という点で大きく変わる。近世以前は,遊女・傀儡・白拍子といった人々が,特異な芸を売り物としてその生を全うしていた。近世に入ると,吉原に代表されるような特殊地区で男に奉仕して生きていくこととになる。

【古代】

芸能者は「乞食所行」とか「河原者」と見下され,芸能を演じる者は「遊行者」として蔑視されて卑賤の扱いを受けてきた。その一方で,芸能の民は神事に関わる者でもあり,古代の「遊部」は神に奉仕し,遊女も神に仕えることを条件とする女性であった。

「遊」の字は『字統』によると「旗を立てて外に旅する」ことが原義で,元来は「神霊の遊行」を意味した,とする。遊芸はもともと「神遊び」と同義語で,この世を超越して神々と共にある状態のことのようである。

平安時代までは「遊女」と書いて「あそびめ」と読み,遊芸人の性格を持つ巫女であった。

【平安末から中世】

遊女が最も得意とした芸は「雑芸」と称される「今様」「朗詠」であった。今様は朗詠にやや遅れて十世紀末頃から盛んとなり,遊女・白拍子の間で大流行し,後に貴紳の間にも広まっていく。

遊女は「あそび」「あそびめ」「遊行女婦(うかれめ)」「傾城」などと称された。水辺に住んで小舟を操って客を求めた遊女に対し,陸地の宿々に拠った者が「傀儡」である。傀儡女とも呼ばれるように,その中には女性も多く,奇術・幻術を舞わせ,女は化粧して今様を謡って客を引いた。傀儡の中には定住する者もいたが,多くは放浪,巡行する集団で,宿駅,都市など人の集中する地区に多く出没した。

遊女の存在は遊女屋が成立していたことを示し,遊女屋の背後では人買いや身売りが行われていたことが想像できる。中世末期には城下町や門前町の発展とともに遊女の数はさらに増加し,近世になると豊臣秀吉が京・大坂に遊郭を設置して官許の公娼制度が始まることとなる。

【白拍子】

白拍子の特徴は「男舞」であること。水干に袴姿の男装で,鼓を伴奏にして舞いながら雑芸を謡う。白拍子とはもともと仏教の声明道の語で,大寺の延年の舞のときなどに童僧が謡ったのが元といわれ,長く寺院に帰属していた。

遊女・傀儡が今様・朗詠を謡うのみで舞うことはほとんどなかったのに対し,白拍子が舞を伴っていたのは,多くの記録に「舞女」「舞伎」と表現されていることでもわかる。男装は尚武の気風に見合ったため,白拍子は平安末期より武家の間で愛されていく。たとえば,仏御前は平清盛に,静御前は源義経に,亀菊は後鳥羽上皇に寵愛された。

白拍子の舞は,後の曲舞などの芸能に受け継がれ,能の『娘道成寺』などにも取り入れられて歌舞伎の舞踏にその命脈を見ることができる。

最初は京で流行した白拍子は,やがて鎌倉などの東国にも広まるが,遊女や傀儡のように宿を仕事の根拠地とはせず,貴顕の邸宅に推参して舞い謡った。

鎌倉時代には公卿の間に「白拍子腹」といわれる子が多く見られ,異数の出世を遂げた例も数多い。遊女・傀儡・白拍子とも貴人に対し芸を施し,その芸の代償として寵愛を受けた。

【近世】

歌舞伎の創始者は,出雲阿国という女性で,芸能団を組織して諸国をめぐり,慶長8年から女性が男装して謡い踊る歌舞伎踊り(阿国歌舞伎)を演じ始めた。慶長10年(1605)以降,遊女による歌舞伎踊り(遊女歌舞伎・女歌舞伎)が全国的に大流行した。

近世初頭は,江戸をはじめ各地の都市に遊里が固定していった時代で,遊里に置かれた遊女屋は座を組織して売色の初見的な宣伝として遊女歌舞伎を興行していった。この遊女歌舞伎は寛永6年(1629)に,風紀を乱すとの理由で禁じられるまで続いた。その後,歌舞伎は若衆歌舞伎の時代へと移っていく。

【吉原】

江戸時代,京都の島原,大坂の新町などとともに幕府公認の遊廓として栄え続けた吉原は,庄司甚内という茶屋の主が徳川家康に遊女屋を一ヶ所に集めたい旨の申請を出したことに始まる。遊女屋が町の中に散らばっていると町人は遊興にふけり,身を持ち崩す者も出る。一カ所に集めて長逗留できぬようにすれば放埒も減る。また,娘を「妾奉公」や「遊女奉公」に出すなどの不届き者も監視でき,公許の遊廓ならば怪しい人物の探索も容易であるとの理由であった。

願いが出された7年後の元和3年(1617),日本橋葺屋町の低湿の土地を埋め立て,昼間だけの営業が許可された。これを元吉原という。遊女は一定区域から出てはならず,家を普請するときは派手な飾りは禁じられ,怪しい客は取り調べるとの達しが出ている。

遊女屋17軒,揚屋24軒があった。

江戸の町が拡張されていくにつれ,吉原も中心地に近くなり,風紀上・都市計画上で好ましくないと移転の計画が持ち上がった頃,明暦の大火で市中の半分が焼亡したため,吉原は浅草観音裏へと移っていく。

三千人の遊女がいた新吉原は約三万坪の広さで,周囲は一面の田圃であった。吉原には,貸座敷(遊女屋)101軒,引手茶屋48軒,芸者屋29軒の三組合があった。

貸座敷は,大見世,中見世,小見世に分かれ,客の財力や階層で使い分けた。貸座敷は6〜7人ほどの花魁を抱え,客を迎えた。引手茶屋は,貸座敷に行く客をもてなし,案内するところで,芸者衆,幇間も詰めていた。

官許された遊廓とは別に,江戸市中には岡場所と呼ばれる私娼が集まる歓楽場所があった。街道の宿場などに多く見られた。

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江戸の基礎知識(2):武士語

八幡和郎監修『武士語でござる』より紹介する。武士語に関して多角的・多面的に説明していて興味深い。


武士語の起源

享保七(1722)年,江戸には,直参旗本が5205人,御家人が17399人,合計22604人,その家族が約9万人。さらに家来とその家族,奉公人が約10万人で,おおよそ21万人ほどが幕臣関係であった。
大名家は約280家あり,家臣とその家族,約10万人の中間などの奉公人を合わせて約28万人ほどいたとされ,さらに浪人やその家族などを含めると,武士関係の人口は約52〜3万人いたと考えられている。
江戸の町方の人口も,武士関係の人口とほぼ同数で,さらに僧侶や神官,遊女,賤民などを加えて,江戸の総人口は約百十万人ほどであった。

この江戸の町について「言葉」を切り口に考えてみると,いろいろなことが見えてくる。

武士語の始まりは,徳川家康が武蔵・相模・伊豆・下総・上総・上野の六カ国を手中に収め,関東二百四十万石の領主となり,家臣団を相模や三河から呼び寄せて以降,仕官を求めて各地から武士が江戸に流れ込み,さまざまな言葉が混じり合うようになってからである。

まず徳川家に祖先から臣従してきた家臣たちが譜代大名になったため,大名家の半数以上が三河と駿河(愛知県)の出身であった。彼らが幕府の要職を占めていることで,彼らと意志を通じて事をうまく運ぶためには「三河言葉(訛り」が使えなければならなかった。三河訛りの言葉以外にも,地方の武士が参勤交代など江戸への往来道中や江戸において他国の武士たちと会話をするのに支障を来さないで意思の疎通をはかるために武士共通の言葉が必要となった。その武士共通の言葉は,全国の武士に浸透していた謡曲や狂言をもとにしたもので,武士語として誕生した時期は寛永・元禄の頃とされている。しかし,狂言をもとにした武士語は堅苦しく,庶民は浄瑠璃をもとに共通語にしていった。


幕府崩壊後の明治新政府では,政府役人同士の会話は互いの国訛りがひどくて会話が成立せず,手紙で使う「候文」を言葉としてそのまま発音して会話を成り立たせていた。海軍では「了解した」の言葉を「ヨウソロ」と言っていたが,これは「よう候」のことである。

「〜です」は,太鼓持ちといわれる幇間などの芸人が客に対して遜ったときに使っていた言葉で,品のいい表現ではなかった。武士は「〜でございます」と言い,女房は「〜でござんす」と言った。これが明治以降に,「です」に統一されたのである。
「〜でございます」の「ます」は軽い丁寧語で,「〜であります」は山口県の方言で長州藩閥が自国の言葉を軍隊用語に使用したからだと言われている。

江戸の町人の中・上級の家では娘を行儀見習いのために身分の高い武家の屋敷に奉公に出したが,このときに身につけた武家言葉が徐々に庶民に広まったのである。しかし,上級武士の言葉とちがって下級武士の言葉は「六方言葉」と言われる粗野な関東方言を取り入れた乱暴な言葉遣いであった。

言葉の頭に促音や撥音を入れて詰まらせる言葉が基本で,ひっぱる・ひっつく・ひったくる・うっちゃる,などがある。言葉の最後に「こい」をつけるものとして,ぬるっこい・ひやっこい,など。「いやだ」を「やだ」のように音が脱落するもの。独特の形容詞では,でかい・だだびろい,などがあり,副詞では,なんのかんの・ちょいと・ちっとも・やたらに,などがある。これらは現代語にもなっていて,普通に使われている。

江戸の武士語が全国に広まった理由の一つは参勤交代で,武士が国元と江戸を行き来したため,言葉も各地に広まったのである。だが,それでも地方訛りは江戸では通じず,「江戸言葉」の手引き書が作られもした。


武士の名前

武士の名前は成長するにつれて変わっていく。武士の名は大きく分けて「名字」「名乗り」「諱」の三つがある。

「遠山の金さん」のフルネームは,遠山左衛門尉景元である。最初の「遠山」が名字である。「左衛門尉」は,本来は官位で,幕府が朝廷に奏請して,旗本は将軍に御目見得すると六位の官位を,役を持つと五位の官位を叙任された。五位以下は幕府高家が年頭に上洛したおり,叙任の位記と宣旨をまとめて持ち帰り交付した。左衛門尉は,本来宮城を守護する左衛門府の三等官に当たるが,江戸時代は名目化しており実態はない。

景元が「諱」である。「諱」は武士にとっての実名で,変えることのできない最後の名ということから「忌み名=諱」という。他人の諱は通常は口にしてはならない。なぜなら,諱はその人の肉体の一部であって,諱での呼びかけはたいへんに無礼なことであった。

武士は普段は「通り名」で呼ばれている。官名が通り名になった。平右衛門とか源兵衛などの通り名は一家の主人が代々受け継ぐ場合もあった。これは右衛門や左衛門に,兵衛や助・介・丞・大夫などを付けたもので,奈良や平安時代の武官名であった。武士は,源氏・平氏・藤原氏・橘氏の出身が多く武士の四大姓であった。そして,源氏の出身なら源兵衛・源右衛門,平氏なら平右衛門・平兵衛,藤原氏なら藤兵衛などのように,通り名に付けて出自を表すことが多かった。

熊谷次郎とか三浦三郎などのように,武士が自分の領地の名前を名乗るようになったことから,領地を「名(みよう)」といったので「名字」となったといわれている。

大奥では,お城に奉公したときに「御名下され」で名をもらい,本名をそのまま使うことはできなくなる。御殿は名前によって役職がわかるようになっているため,役職が変わると名も変わった。側室に上がって「中掾vになると,大奥特有の「おの字免許」で,名の上に「お」の字が許された。さらに将軍の子どもを産むと「方の字免許」で,名の下に「方」の字が許されたのである。町方の自由さとは異なっていたことがわかる。


呼び名

武士は自分のことを「某(それがし)」「身共(みども)」「手前」「拙者」などと一人称代名詞で表したが,将軍は「身共」とは言うが「拙者」とは絶対に言わなかった。「身共」は同輩やそれ以下の者に対して自分を表す武士語であり,「拙者」は自分を謙遜して使う言葉であった。「余」は「われ」の意味で,通常は殿様など身分の高い武士が,家来などに自分のことを指すときに使った。本来の意味は「余り者」で,殿様が「家臣の枠の外の者」として区別するために使った。

相手の呼び方は,身分の高い者が目下の家来などに対して呼びかける「そち」は「そちらの」を略した呼び名であった。「そなた」も同様の呼びかけに使った武士語である。「貴様」は,身分や地位,価値が高いものを表す「貴」に,「様もよき人」にように品格や人格を表す「様」が付き,「あなたさま」という意味となった。主に,武士の書簡などで,目上の人に対して用いられたが,やがて敬意の意味が落ちて,目下か同輩の者に用いられた,さらに相手を罵る言葉になっていった。「様」は「寂しげな様」というように,姿や形を表すときに用いられた。「貴殿」は,本来は相手を敬って,その居館を呼ぶ語であったが,やがて人に対して用いられるようになった。同輩に親愛の気持ちを表す語としても用いられた。「貴公」は,同輩の者に用いられた。「そこもと」は,武士が使った二人称で,やや目下の者に使われた。

「下郎」は宮中で低い官位の「下臈」から転じた言葉で,下賤の者という意味で使われるようになり,やがて「下郎」の字が当てられるようになった。身分の低い男を罵って使う言葉である。

大名や旗本は「殿様」と呼ばれ,御目見得以下の御家人は「旦那様」と呼ばれた。

武士の妻たちも夫の身分によって呼び方が変わった。将軍の正室は天下の台所を支配するという意味から「御台所(みだいどころ)」といい,略して「御台様」と呼ばれた。

御三家や御三卿の正室は,簾の中の貴婦人という意味で「御簾中(ごれんちゅう)」と呼ばれ,大名や高家,旗本の妻は「奥方様」とか「奥様」と呼ばれた。御家人の妻は「御新造様」と呼ばれた。

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古文書の読み方

「古文書が読める」というのは,文字の字面をただ技術的に読めることだけを意味するのではない。一字一句を正確に読み,細部の解釈や語句の意味にこだわり,疑問に思った点や,解釈が難しい点,わからない部分をごまかすことなく,可能な限り正確に読み解き,当時の人々の眼線に立つ努力をしながら,その背後にある歴史社会の全体像に迫ること,そうすることで,過去を生きた人々と対話すること,これこそが「古文書が読める」ことの本当の意味であろう。

『史料を読み解く2 近世の村と町』「本書を学ぶ読者へ」

これは何も史料としての古文書を読み解くことだけに適用されるものではない。あらゆる文献や資料の読解にも通じる姿勢である。文献の時代背景や社会状況,社会通念なども十分に考慮して読解していくことが何よりも重要である。逆に自己流の解釈や憶測・推測・思い込みからの解釈は本来の意図や内容とは遠くかけ離れたものになってしまい,不正確な読解となる。何事においても,偏見や先入観からの独断を廃して,作者の意図を正確に読み取ることが大事である。

古文書においては「原文」を読み下すことは相当の慣れが必要であるし,専門家は別として古文書に触れる機会もそれほど多くない者にとっては,それほどの必要性はないと思う。むしろ,活字となった「釈文」や「読み下し文」を正確に読みこなすことの方が大切である。

ここでは,「釈文」を読み下す場合に必要な基礎知識をまとめておこうと思う。「釈文」には,変体仮名のような独特の読み方や意味をもつもの,慣用表現が多い。これらを例示して覚えておくと,わりと楽に読むことができる。

本来は「変体仮名」などは半角で表記すべきだが,Web上での表記が難しい場合もあり,そのままに全角で表示するかひらがな(読み下し)で表記している。

変体仮名

江(え)・而(て)・与(と)・者(は)・茂(も)・而巳(のみ)・可(か)・志(し)・堂(た)・多(た)・婦(ふ)・連(れ)・王(わ)〆(しめ)・于(に)

慣用句・特別な読み方

斗(ばかり)・抔(など)・間敷(まじく,まじき)・紛敷(まぎらわしき)・六ヶ敷(むつかしき)

かならず返って読む

被(被仰付:おおせつけられ)・可(可被仰付:おおせつけらるべき,可致:いたすべき)・不(不相知:あいしれず,不及:およぼす)・無(無之:これなく,無拠:よんどころなく)・有(有之:これあり)・於(於福岡:福岡において,於有之:これあるにおいて)・就(就夫:それについて)

返る場合も返らない場合もある文字

為(「させる」「なす」「たる」「として」と読む場合は返る,被為仰付候:おおせつけさせられそうろう,為後日:ごじつのため)・及(及差支御達及候:さしつかえおよびおたっしおよびそうろう)

疑問・接続等を示す文字

哉(や:だろうか)・欤(か:あるいは)・条(ので)・間(ので)・并(ならびに:そして)

くり返しの記号

ゞ(ひらがな・濁音)・ゝ(ひらがな)・ヽ(カタカナ)


武家文書

古文書を読んでいると,最初は「くずし字」に悪戦苦闘するが,同じ文言が何度も出てくるのでいつしかなんとなく読めるようになる。所詮,言葉であり文字である。しかも外国語ではなく日本語である。ただ,コツはある。その一つが「独特の言い回し」を抜き出して覚えてしまうことだ。外国語のフレーズ(熟語・慣用句)と同じである。

農村文書や願(訴)状の最初の行には,「乍恐以書付御願奉申上候」がよくある。「恐れながら,書き付けをもって,お願い申し上げ奉り候」である。

他にも「被仰付候」(仰せ付けられ候),「可得御意候」(御意を得べく候),「無御座候得共」(ござなく候えども)「成間敷候」(なるまじく候),「可被下候」(下さるべく候)などという言い回しがよく書かれているので,こうした熟語をまずは覚えることから始めると結構わかってくる。

また,現代語では使わない用法を理解することだ。それは「御」や「可」「候」「被」「為」などや,変体仮名と助詞である。これもフレーズで覚えてしまう。

「可被仰聞由」(おおせきけらるべきよし),「可有御座候間」(ござるべくそうろうあいだ),「可被思召候」(おぼしめさるべくそうろう),「成間敷候」(なるまじくそうろう),「奉存候」(ぞんじたてまつりそうろう),「以面可申入候」(めんをもってもうしいるべくそうろう:会ってからお話しします),「被成」(なされ),「被為成」(なさせられ)などがある。

尊敬語,謙譲語も武家文書の特徴である。身分間の上下関係のきびしさと,礼節を重んじたことがわかって興味深い。「令」(せしめ)は謙譲の意を示す。手紙文などには,「態以書状令申候」(わざとしょじょうをもってもうさしめそうろう),「一筆令啓上候」(いっぴつけいじょうせしめそうろう)という冒頭の文言が多い。

上記の例は,『江戸時代を探検する』(山本博文)より引用したが,歴史関係の本,部落史も同様だが,史料引用の場合に,読みとして「ルビ」がふってあったり,現代語訳が併記してあったりすることがある。専門書や論文では少ないが,一般向けの本では親切である。そんなとき,独特のフレーズを抜き出してノートに書き留めておくとよいと思う。

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江戸の基礎知識(1)

時刻の呼び方

江戸時代は,一日24時間を12に分け,干支の十二支で呼んだ。一時(いっとき)は約2時間で,日の出(明六つ)から日の入り(暮六つ)までを6等分して「昼」とし,それ以外を「夜」とした。1時間は一時の半分だから,半時(はんとき),さらに短い時間は,一時を上中下に三分割して「子の上刻」「未の下刻」と呼んだ。また,一時を30分ずつ4分割して一つ,二つ,三つということもあった。怪談話で「草木も眠る丑三つ時」がその例である。

午前0時  九ツ 子の刻    午前1時 九ツ半 子の中刻
午前2時  八ツ 丑の刻    午前3時 八ツ半 丑の中刻
午前4時  七ツ 寅の刻    午前5時 七ツ半 寅の中刻
午前6時  六ツ 卯の刻    午前7時 六ツ半 卯の中刻
午前8時  五ツ 辰の刻    午前9時 五ツ半 辰の中刻
午前10時  四ツ 巳の刻   午前11時 四ツ半 巳の中刻
午後0時  九ツ 午の刻    午後1時 九ツ半 午の中刻
午後2時  八ツ 未の刻    午後3時 八ツ半 未の中刻
午後4時  七ツ 申の刻    午後5時 七ツ半 申の中刻
午後6時  六ツ 酉の刻    午後7時 六ツ半 酉の中刻
午後8時  五ツ 戌の刻    午後9時 五ツ半 戌の中刻
午後10時  四ツ 亥の刻    午後11時 四ツ半 亥の中刻

江戸時代は,江戸城では太鼓,町では社寺の鐘などによって時刻が知らされた。


方位

十二支で表したものに「方位」がある。北は「子」,東は「卯」,南は「午」,西は「酉」で,北東は「艮(うしとら)」,南東は「巽(たつみ)」,南西は「坤(ひつじさる)」,北西は「乾(いぬい)」というように表した。


尺貫法換算表(明治8年の統一値)

長さ

一丈=10尺=3.03m
1尺=10寸=30.3cm
1寸=10分=3.03cm
1分=3mm

距離

1里=36町=3.93km
1町=60間=109m
1間=6尺=1.82m
1尺=30.3cm

面積

1町=10反=3000坪=99a
1反(段)=10畝=9.9a
1畝=30坪=99m2
1坪(歩)=6尺平方=3.3u
1尺平方=0.09u

重さ

1貫=1000匁=3.75kg
1斤=160匁=600g
1匁=3.75g

容積

1石=10斗=100升=0.18キロリットル
1斗=10升=18リットル
1升=10合=1.8リットル
1勺=0.018リットル

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武士の窮乏

知行とは「領地から年貢を徴収する権利」であり,石高で示される。1石は米150sほどにある。江戸時代では米1石が金一両だった。現在の銘柄米10s6000円で換算すれば,約9万円であるが,江戸時代は米の値段が他の物価に比べて高かったので,必ずしも実態を判明したものではない。日本銀行貨幣博物館では,職人の手間賃などから考えて,1両を30〜40万円と試算して,実態に近いものとしている。金1両は,江戸中期までは銭4貫文,後期になると6貫文くらいになり,1貫文は1000文だから,換算すれば,銭1文は66円から100円ほどであった。

三田村鳶魚の「文政年間漫録」(『未刊随筆百種』所収)に,三百石取りの武士の年間家計を推測している。それによると,三百石の武士は,寛永の軍役規定で,侍二人,具足持ち一人,槍持ち一人,挟箱持ち一人,馬取り二人,草履取り一人,小荷駄(荷物を運ばせる馬,あるいはその馬をひく人足)二人の計十人の家来が必要であった。侍二人は武士身分で給金が一人四両,具足持ちなどの中間は武家奉公人で給金が二十両かかった。馬の秣代が年間九両かかり,その他にも家来の飯代や武具・家具などの経費を合計すると,生活は厳しかった。


藩士に領地(知行地)を与える給与方式を「地方知行」といい,いったん藩に納入された米を支給する給与方式を「俸禄知行」といった。17世紀半頃から,藩財政や武士の家財政の窮乏化によって,藩士の知行が地方知行制から俸禄知行制へと改革されていった。

下級武士は,知行ではなく,米やお金で給料をもらう身分であった。これらの武士の給料は「五十俵三人扶持」と表示された。米五十俵を「切米」といい,三人扶持を「扶持米」といった。これは米俵五十俵分の米と,奉公人の飯米(食糧)三人分を支給されることを意味する。「切米」は一部を米でもらって飯米とし,一部は換金して貨幣で受け取った。

なぜ武士は窮乏化していったのか。『大江戸「懐」事情』(小林弘忠)を参考にまとめてみる。

生産労働者ではない武士は,扶持米のほかに現金収入はなく,俸給の範囲内で生計を立てなければならず,それも年俸の米を売って暮らすしかなかった。

武士の俸禄は,家格に応じて決められている「家禄」であり,俸禄が上がるのは昇格しての加増か,あるいは出世して役職に就いてもらえる役手当しかなかった。この給与体系が江戸時代270年間を通じて変わらなかったのである。身分は世襲だから,よほどのことがないかぎり禄高は増加しない。

武士が幕府や藩から支給される知行(俸禄)の形態は,次の5つに大別できる。

地方知行(所領を与えられ,その村からの年貢を受ける)
蔵米知行(幕府の御蔵から1俵3.5斗の米俵を年3回に分けて受ける)
両者併用の知行
扶持米知行(1日5合の割で日々の扶持米を月割でもらう)
蔵米と扶持米との併用の知行

幕府は,1日に1人が使用(消費)する米の量を5合(0.9リットル)と決めていたので,1人の年間米消費量は,5合×350日=1石7斗5升となる。1俵は通常4斗であるが,幕府は3斗5升で算出したので,1人分を俵換算すると,5俵となる。ですから,50俵十人扶持では,50俵+(5俵×10人)=100俵となる。町奉行の同心クラスの御家人はだいたいが30俵2人扶持であった。俵計算では年40俵,つまり現金14両が生計費である。食べる米を差し引くとほとんど残らないから内職を手がけるしかなかった。

【知行旗本(500石)の場合】

収入(禄高) 500石(500両:7500万円)
実収入 500石×0.4(四公六民)=200石=2000俵
※ 家族3人+家臣ら6人の年間米消費量 5俵×9=45俵
現金換算 195両(約2932万円)

支出

家族・家臣らの生活費   70両
家臣の給与・衣服費    30両
諸雑費・教育費        65両
儀礼費             20両
屋敷の修繕費         15両
計         200両(3000万円)

【蔵米知行(100俵)旗本の場合】

収入(年収) 100俵×3石5斗=350斗=35石(525万円)
※ 家族3人+家来3人の年間米消費量 1石7斗5升×6=10石5斗
現金換算  24.5両(万円)

支出 

家臣らの年俸・衣服費  9両(135万円)
儀礼費          10両(150万円)
生活費           5両(75万円)
1石1両,1両15万円として計算

この表からわかるのは,儀礼費の多さである。江戸時代は,礼儀を重んじることを奨励したため年中,付け届けなどを余儀なくされ,これに伴う出費が膨大であった。正月の上役へのあいさつ,同僚の出産,親の死亡,子どもの元服と,年中金品を届けなくてはならなかった。「常是包」という金を包む熨斗袋が常備され,就職したり昇格したりしたときは,上役らを招いて開く馬代(車代)付きの「御昵懇の宴」も儀式化されていた。

次に,家臣の給与と衣服代である。武家は所定の兵員を常時抱えておくのが忠義の証であった。三百石取りで7人は必要とされていた。用人・門衛・若党・下男・下女など家臣の生活費,衣服費,給与が家計を圧迫していた。家臣十五人の一千石の旗本では,人件費は30%を占めている。

何より米で受け取った俸禄を換金して生活しなければならない武士にとって,米相場による米価が即生活に響いた。江戸中期からは「米価安の諸色高」となり,米の値段が安いのに諸色(諸物価)が高くなった。米が安いと売却しても禄高より実入りが少なくなり,さらに物価高が加わって武士の生活を困窮化させたのである。
しかし反面,町人や大名屋敷からの付け届けがある町奉行配下の同心や,役職によっては将軍からの下賜品や大名からの報奨金など頂戴物があり,これらが生活費を補っていた。

posted by 藤田孝志 at 01:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

リサイクル社会

江戸時代が高度なリサイクル社会であったことは周知の事実である。消費された物品の9割が再利用されたといわれている。

傘は油紙で作られたが,破れたら新しい紙に張り替えて使用した。破れた油紙は,鮮魚や漬物などの包み紙として使用した。番傘の値段が二百文から三百文程度,高級品の蛇の目傘はその倍以上したため,庶民は古傘を使った。

「古傘買い」が買い集めたものを傘屋は再生して売り出したが,骨を削り直して新しい紙を貼るのは浪人の内職仕事であった。古傘の骨を利用して「凧」を作る者もいた。凧一枚は十四文ほどで売れた。

不用になったものを買い取る商売も盛んで,服は古着屋が,道具は小道具屋が引き取った。

江戸時代,織物や染物は手間がかかり,非常に高価なものだったので,庶民は古着を身につけた。この古着はいくども洗い張りをし,仕立て直しをして大切に着た。冬は袷を着るが,袷がなければ単衣を二枚合わせ綿を入れて着た。夏には綿を抜き単衣にして着た。自分が着られなくなると,小さく作り直して子どもに着せた。その後は,雑巾にしたり下駄の鼻緒にしたりした。江戸中期には,古着商売に関わる人間は三千人を超えていた。

古着買いのなかには「湯灌場買い」を専門にする者もいた。湯灌とは,死んだ人を棺に納める前に身体を拭き清めることで,寺の近くに湯灌場が設けられていた。自宅で湯灌することは禁じられていたため,湯灌の世話にならざるをえない。湯灌が終わったら死に装束を着せ,納棺する。湯灌場買いは,湯灌場に出かけ,不用になった死者の着物を買って歩いた。この着物は一度ほどいて洗い張りされ,古着屋の店先に並べられた。

道端の紙屑も紙屑拾いが拾い集めて「浅草紙」に再生した。江戸時代の和紙は10ミリ以上の長い植物繊維でつくられ,添加物もないので,容易に漉き返すことができたので,紙のリサイクルも行うことができた。紙屑拾いは,集めた紙屑を「立場(たてば)」と称する問屋に持ち込み,買い取ってもらった。これを買い取った浅草山谷の職人や千住あたりの農村が副業として紙漉きを行った。紙屑を煮て溶かし,冷やしてから漉いた。冷えるまですることがないので,浅草山谷の職人が吉原を見物してきた。これが「冷やかす」の語源と言われている。この浅草紙は百枚百文ほどで売られていた。

中江克己氏の『お江戸の意外な商売事情』より,いくつか紹介する。

【とっかえべえ】

壊れた鍋,折れた火箸,錆びて仕えなくなった包丁や鋏などの古鉄と飴を取り替える行商人である。古鉄買いは古着屋や質屋などと同じく,幕府が盗品の売買防止のために定めた業種だが,「とかえべえ」は正規の古鉄買い組合に属さず,下請けのようなものだった。

【蝋燭の流れ買い】

蝋燭は奈良時代に伝わったが,室町後期には,櫨や漆の実を原料とした木蝋が生産されるようになった。江戸時代になると,櫨や漆を作る農家が増えて蝋燭も量産されるようになったが,たいへんな手間と過酷な肉体労働,熟練した技術が必要であったため,高価であった。
大工の一日の手間賃が五百文という時代に,「百目蝋燭」は1本二百文だった。
蝋燭の溶けて流れた「蝋涙」を秤で目方を量って買い取った商売である。買い取った「蝋涙」は再び溶かして新しい蝋燭に再生した。
また,溶かした蝋を丸や四角の型に入れて固めて売った。これは引戸の滑りをよくするために桟に塗ったり,木製品や廊下の艶出しなどに使った。あるいは,液状になった蝋を紙に塗って蝋紙にし,合羽や傘の防水に使ったりした。

【おちゃない】

落髪を集めて,かもじ(添え髪)を作る業者もいた。この落髪を買い歩く業者を「おちゃない」(「落ち髪はないか」)という。主に女たちの仕事で,買い集めた落髪を風呂敷包みを頭にのせて歩いた。

【貸褌】

江戸時代,男のおしゃれは,尻っぱしょりの「見せ褌」であった。褌は必需品であったが,布は高級品なので,新品を誂えるというのは庶民にはむずかしいことであった。
賭博場で元手に困ったときにお金を借りる鉄火質では,晒木綿の褌を質草にすると,銭一貫文(千文)借りられるほどの値打であった。
「貸褌」は,まず最初に二百四十八文を払って,新しい六尺褌を購入する。褌が汚れたときに店に行き,六十文出すと,選択したての新しい褌を出してくれるというシステムである。では,古くなった褌はどうするかというと,中形に染めて(中ぐらいの大きさの模様を型染めしたもの)仕立物にして田舎に送った。高価な物が流通しない田舎では,古着や中古の端布が商売になった。

江戸時代,トイレは「雪隠」といったが,武家屋敷には小便所と大便所が組になって設けられていた。町屋でも同じであった。裏長屋は「総後架」と呼ばる共同のトイレで,踏板を渡しただけの簡単な構造で扉は半分しかなかった。大便所と小便所が分かれて設けられていた理由は,大便を畑の肥料として,近郊の百姓に売ったからである。

江戸城の汲み取りの権利を持っていたのは,葛飾郡葛西領にある約六十ヵ村であった。この村に住む葛西権四郎を名乗る家が権利を持っていた。葛西権四郎は鎌倉時代以来の名門であったが,家康の江戸入国により葛西に土着して農民となり,汲み取りの権利を与えられた。

毎日,葛西権四郎は船二艘で,和田倉門外の「辰口」まで漕ぎ寄せて,城の塵芥を積んで葛西に送った。大奥の長局の下掃除も権利として与えられて汲み取った。また,江戸城だけでなく江戸市中の多くの汲み取りを担当した。
葛西船は,朝は野菜を積んで青物市場に降ろし,帰りに肥樽百六十個ほどを満載にして葛西に帰った。江戸後期には,専門の肥船業者や汲み取り業者,肥の売買をする会所もつくられた。
肥会所では,糞の相場も立った。
特上は「きんばん」と呼ばれ,幕府や大名者敷の勤番者の糞で,最高品とされた。次が上等の「辻肥」で,街頭にある辻便所の糞であった。中等が「町肥」と呼ばれる一般町屋の糞,それから下等の「たれこみ」(小便が多い)や「お屋敷」(牢獄)であった。
値段は,一樽が二十五文,一艘が約一両であった。農村では「船一艘は一町株」といわれ,肥船を一艘持っていると,田畑一町分の儲けがあったといわれた。

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2010年09月11日

教科書では大名(藩)の財政破綻や武士の生活困窮は記述されても,その原因,特に歴史背景としての(間接的)原因についてはほとんど説明されていない。参勤交代や普請など,幕府が各藩の支出増大を目的として政策的に大名への負担を強いたことや,商品経済の浸透と飢饉などによる年貢の停滞などが理由として簡単に記述されているだけである。参勤交代は江戸と領国の二重生活による負担増だけでなく,拝領地なので地代はいらないが,上屋敷・中屋敷・下屋敷と広大な江戸藩邸の維持も大変な出費であり,また石高(家格)による従事させる家臣数や支度も膨大な出費となる。また,江戸での生活では,付届けや献上品,手土産,歓待など日常の付き合い,家臣や小者などへの給金などにも費用がかかっている。これは,大名だけでなく家臣も同じであり,旗本・御家人も同様である。

収入の増加が少ない割に支出が増大していったのが江戸時代,特に中期以降である。凶作による年貢減少,幕府からの普請命令,物価高,消費生活費の増大など,幕府・藩・旗本や御家人・家臣の財政難は深刻であった。しかし,家格に応じた格式は守らなければならず,それに伴う出費は致し方なかった。それでも,幕府や藩は経費の削減と商品作物・特産物の専売制や商業政策による増収をはかる改革を断行し続けた。しかし,成功した例は少ない。岡山藩もまた失敗している。

ただし,これらの舞台が「江戸」であり,各藩における政治社会体制や支配のしくみ,城下と郡部(農村部)の実態などとは異なることの方が多いと思う。もちろん,幕府の政治や江戸の行政組織,武士の格式や庶民の日常生活などについては,模倣(参照)も流行もあったと思うが,末端組織や地方行政などは近隣の幕府領における代官支配とも異なる独自性は強かったように思う。

岡山県でも,備前の岡山藩,美作の津山藩・美作勝山藩,備中の庭瀬藩・芦森藩。生坂藩・浅尾藩・岡田藩・鴨方藩・備中松山藩・新見藩の諸藩があり,幕府領も点在していた。藩の形態はほぼ同じであって,石高・家臣の数・領地の規模などの違いから職制だけでなく支配の実態も異なり,独自のものがあった。この意味において,穢多・非人など雑賤民(被差別身分)の実態や支配体制も異なっていたと考える。

幕府権力は,中世以来の支配システムを改良しつつ,その当時の実態に即して,家臣である武士はもちろん,民衆を掌握・支配する体制を構築していったと考えている。その方策として「身分制度」があり,その支配・統治・収奪(収集)の一端として「治安維持」「皮革業」「雑業」を穢多・非人などの雑賤民に負担させたと考えている。つまり彼等を「機能的集団」として掌握していったのである。そのあり方・社会的位置づけが,その地方(各藩)によって独自性をもっていたと考える。

歴史の個別研究をおこなう際,その前提として通史的な全体把握とともに,現代の価値観や認識とは異なる各時代の社会観や認識を理解しておく必要がある。たとえば,衣食住など日常生活,物価,税体制,さらには各時代独自の社会状況(身分制や支配体制など)を把握する必要がある。

posted by 藤田孝志 at 13:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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