2010年08月24日

藩財政の窮乏化(2):御用方

山本博文氏の『参勤交代』に「江戸・京・大坂御用方の内実」として,寛永二十年の萩藩の収支を考察した一文がある。

萩藩など西国諸藩は,大坂と京都に蔵屋敷を設けていた。大阪蔵屋敷の機能は,福岡藩の事例で見ると,以下の通りになる。

@大坂蔵米の売却
A藩主参勤時の御用
B大坂町奉行・船手奉行らへの進物持参
C江戸・京・堺などからの使者の応対
D京都や方々への御用状の手配
E蔵屋敷の管理・修復

さて,寛永二十年の萩藩の収支についてまず指摘できることは「江戸御遣方」が千二百六十貫目と圧倒的な額に上がることである。

これは,江戸藩邸の維持費,幕府や諸大名への献上品・進物の経費,藩主の生活費などを含めた額である。これは,萩藩の現銀収入の半分以上を占める山代物成(山代紙に掛ける年貢)で充てられることになっていたが,この年は五百六十貫目の赤字である。

次に,江戸,京都,大坂,長崎からの借銀の利子が,五百九十一貫三百目になる。これは,物成米売却代銀と浦浜畠銀の合計よりも多い。萩藩の現銀収入は,この二口と山代物成であるから,萩藩の場合,江戸藩邸経費と借銀の利子だけで赤字になる。

同書には,江戸中期の松江藩財政の内訳も分析されているが,それによると,藩財政における俸禄の占める割合は45%と大きい。次に多いのは,江戸入用(江戸の経費)で,30%を占めている。これは,藩主の江戸での生活費のほか,江戸詰め藩士への手当,幕府や諸大名への献上品や進物の購入費,奥方の衣装費などである。因みに,同書にある萩藩の「藩主と奥方の小遣い」では,藩主が藩財政の2.8%,奥方が2.0%とそれほど多くはないが,これに「御裏様呉服代」が独立して,0.1%が加算される。この呉服代を石高にすれば七百二十五石余になり,1石1両で金に換算すれば七百二十五両,1両10万円としても7200万円になる。5年間の合計ではあるが,それでも国廻上使への接待費や朝鮮通信使への賄費よりも多いし,現代から考えても莫大な衣装費である。
一方,藩の経営費である国許入用は20%である。なお,藩士への俸禄を除いた可処分所得で割合を考えると,江戸入用は55%,京坂入用と合わせると60%近い。国許入用は35%,道中銀は5%である。

先の萩藩36万石の財政は,21万石ほどの蔵入地(直轄地)収入によってまかなっている。5年間の実質年貢収入は51万8707石余である。そのうち,「江戸・京・大坂御用方」は,5年間で33万7536石で,藩財政の59.5%に上がる。この中に,江戸屋敷の経営費用や参勤交代の費用,借銀の返済,諸方への進物などがすべて入っている。松江藩も同様のことと考えられる。


次に,将軍やその世子・御台所への献上物や老中への進物について,同書に加賀藩の事例が銀に換算して挙げられている。

御献上御進物(将軍へ)       34貫400目
御献上(御台所へ)            8貫700目
西丸御献上(将軍世子へ)     17貫400目
老中・側衆などへ              135貫目

これを合計すると,銀百九十五貫五百目,金にして三千二百五十八両という大金になる。道中の経費のほぼ半分ほどもかかっている。

ただし,これが藩財政を圧迫していたというわけではない。…将軍からは,献上の倍額に近い拝領品が下賜される。この献上と拝領は,それぞれの家の家格によって定められたもので,武鑑にも記され,周知のことになっている。

一方,額は小さいとはいえ老中や幕閣への進物に返礼はなく,数が多いだけに藩財政にある程度は影響を与えていた。

また,他藩領を通過する際の通行儀礼として藩主ならびに関係者への贈答も大きな出費ではあったが,宿泊代も大きかった。

同署に,文政元年(1818)に加賀前田家十二代藩主斉広が帰国する際,糸魚川宿に宿泊した時の記録が挙げられている。

銭 32貫800文 上  一泊200文
                      主人ほか       164人分

銭 93貫60文  中  一泊180文
                       中間・若党・鑓持等 517人分

銭214貫880文 下  一泊160文
                      小者・通し人足   1343人分

銭 17貫文 馬  一泊500文
                                     34疋分

銭 25貫200文 本陣 一泊280文 
                       藩主付きの者     90人分

銭 10貫文    本陣馬一泊500文
                                     20疋分

この合計が,392貫940文である。…一文を現在の25円として計算すると,上の宿屋で一泊二食付き5000円である。総額で,約二千人の人数と馬54疋の宿泊費は,約953万円である。道中を12日としても,1億円を超える額である。

参勤交代の意味は別として出費だけを考えても相当のムダと思うが,藩財政の窮乏は参勤交代が原因ではない。

結局は,江戸と国許との二重生活による莫大な出費と幕府に命じられる「天下普請」の負担であり,そのために札差などの商人から借りた巨額の借金とその利子が藩財政を窮乏化させたのである。

各藩の江戸屋敷における支出高は,生活維持費や家臣の手当など藩財政の4〜50%を占めていた。たとえば,延享四年(1747)の二十四万石の土佐山内家の全支出総額は銀二千六百三十三貫目(金では四万三千八百八十三両)で,このうち江戸屋敷の経費は銀千四百五十五貫目(金二万四千二百九十九両)と,55%となっている。同年の100万石の加賀前田藩は17万1600両,五万石の備中松山藩でも1万8000両を支出している。

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藩財政の窮乏化(1):天下普請と参勤交代

藩財政が刻々と窮乏化の途を辿ったことは,ほとんどすべての藩に共通する。岡山藩も例外ではない。池田光政の治世から大規模な新田開発,商品作物の奨励,特産品の専売制などにより相対的に幾分かは恵まれた条件にあったが,藩財政の現実は厳しいものであった。

薩摩藩は77万石の外様大名であるが,その第8代藩主島津重豪は自分の娘(茂)を将軍の御台所(正室)に送り,江戸の藩邸は高輪下にあったので高輪下将軍ともいわれていたが,同藩の財政は大赤字であった。三都(江戸・京都・大阪),南都(奈良)の商人からの借財の額は,500万両を超えていた。1石を1両と計算して,石高の6.5倍の借金である。この頃の金利は少なく見積もって1割2分,年に60万両の利息である。

安永5年(1776年)に三女の茂が将軍家斉に嫁いでから徳川家との姻戚関係にからんだ出費も多く,また重豪による藩校造士館や演武館などの設置,新規事業などの出費も多かったが,何よりも借財の大半は幕府から命じられた「天下普請」が要因であった。

幕府は,大名に全国の難工事を請け負わせ,その費用は各藩の財政から捻出させた。これを「天下普請」といい,造成地の開発,河川改修,堤防の建設,治水治山,道路拡張,城郭や寺院の修理などの難工事を諸大名,特に外様大名に割り当てられたのである。薩摩藩は木曽川治水工事,東海道沿線の河川拡張工事に,お手伝いと称した天下普請をまかせられていた。木曽川治水工事だけでも50万両がかかっている。

岡山県北の津山藩は老中柳沢吉保の奸計により「武蔵児玉郡中野村お犬小屋御普請」を下命された。総工費約四万三千両(1両20万円で,約86億円)である。津山藩は十八万六千五百石であるから,1石1両として年間収益約30〜38億円と考えても,年収の3倍近い額の出費である。約二ヶ月後,延べ人数約百万人の人夫,約一万頭の荷馬,二万七千輌の荷車や諸道具などを総動員して連日の突貫工事により,元禄八年十二月四日にお犬小屋は完成した。そして,津山藩に残ったのは三万両を超える莫大な借財であった。


さらに藩財政を苦しめたのが参勤交代と江戸屋敷の経費である。山本博文氏の『参勤交代』より抜粋して引用しておく。

参勤交代経費については,元金沢市立図書館の忠田敏男氏が,加賀藩を事例に紹介している(『参勤交代道中記』)。そこであげられているのは,@旅籠賃,A川越賃,B予約解約の時の補償金,C幕府要人への土産品の四点である。…幕府領や他藩の領内を通行する際にやってくる代官や使者への下賜品,藩主への贈答品など,それ以外にもさまざまな費用が掛かってくる。

忠田氏の紹介している「文化五年(1808)御帰国の御入用銀」によると,家臣への貸し金まで含めて総額銀三百三十二貫四百六十六匁余となっている。

支払いは,相手や金額により金,銀,銭で行っていたが,それらをすべて銀に換算したら三百三十二貫という数字になる。金一両は,銀六十匁で換算するから,これを金にして約五千五百四十一両である。

忠田氏は,これを次のようにいくつかの指標で現在の貨幣価値におきかえている。

@精米を物差しに当てた場合 四億二千六百六十四万円

A利息を物差しに当てた場合 五億三千万円

B手間賃・労賃を物差しに当てた場合 六億九千万円

同じく「文化五年(1808)御帰国の御入用銀」の中で,「二千九百六十七切 御供人へ被下金」という項目がある。これは供の藩士への手当で,金一切は一分金のことであるから,小判にして七百四十一両余となる。

供の藩士の宿泊費や食費などは当然藩が一括して支払ったであろうが,国許から江戸まで供をして一年間江戸に滞在するわけであるから,長旅の準備や自分の家来への手当,江戸での生活費など,物入りは多かった。このため,藩から身分や役職に応じて手当が支給されたのである。

秋田藩の『国典類抄』に,正徳四年(1714)春の参勤の時の山方泰護の記録がある。これによれば,随行する家老の渋江十兵衛に五十両もの手当を与えているのえお筆頭に,家老・用人クラスで十五両から三十両,物頭・御歩行頭・御納戸役に十五両,目付に二十五両,御側小姓に八両,大小姓に八両から十五両,大番士に八両といったように手当を支給している。

ここに揚げられている藩士の総数は八両支給の御側医師,一両一分支給の御茶屋坊主や御時計坊主,三両支給の御馬役などまで含めて百九人である。そのほか,御歩行が七十二人(一人一両一分),御茶屋者十人(一両一分),御足軽二百二十六人(一人二分),御中間九十六人(一人一分)などがある。

藩の直臣と藩直属の足軽・中間などを含めて四百人を越える人数になるが,その手当は小判にして千四百三十五両余となる。これは,仮に一両を現在の十万円として計算すると,一億四千三百五十万円となる。当然,このくらいの額は必要だったであろう。

参勤交代の行列は,藩の家臣やその家来(陪臣)だけで構成されていたわけではない。大名行列のほぼ三分の一は,通日雇と呼ばれる人足によって占められていた。通日雇は,参勤交代の荷物の運送を,国許から江戸まで通して請け負う人足のことで,六組飛脚問屋に加盟する専門の業者があった。

通日雇の日給銀十匁は,銀五十匁を十万円として換算すれば二万円,かなりの日当を取っていることになる。また,桑名藩の通日雇の経費は,金一両を十万円とすれば約七千六百四十万円となり,十万石ほどの中藩にしてみれば,かなりの出費であったことがわかる。

江戸初期は参勤交代の人数が多く,幕府はこれを削減するように命じているが,参勤の行列はその大名の格を誇示するものであるから,なかなか大名は人数を減らさなかった。秋田藩(久保田藩)は21万石である。一般に,薩摩藩や加賀藩などの大藩は数千人規模であるが,十万石程度の大名行列は,享保の頃は二百八十人くらいであるから,街道を通る大名の一団は百五十から三百人が最も多かった。

藩の規模に応じた大名行列ではあるが,参勤交代の諸費用の中で最大の出費であったのが,幕府への献上や諸大名との贈答慣行であり,これらは切り詰めることはできなかった。

ちなみに,前出の山本博文氏の『参勤交代』の「藩財政に占める参勤交代経費」によると,参勤交代諸費用は藩財政の中ではわずか数%である。参考例として「江戸時代中期の松江藩」について,次のように書かれている。

参勤交代に直接関わる費用である道中銀は,わずか三パーセント,京坂入用も二パーセントである。それほどの比率は占めていない。

ただし,「わずか三パーセント」と書いたが,銀三千六百四十貫を公定の金一両=銀六十匁として金に換算すると六千六十六両,一両十万円として現代の貨幣価値に直すと六億六百六十万円になる。これは,かなり巨額だと言ってよいだろう。

しかし,それを藩財政の中に置いて考えると,その占める割合は,案外に少ない。藩財政の規模は,それほど巨大なのである。

では,何が藩財政を圧迫し,困窮化させたのであろうか。

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2010年08月23日

江戸庶民の経済事情

NHK教育テレビで放送されている『知るを楽しむ−歴史に好奇心ー』を時折,興味深く視ている。そのテキストも何冊か持っているが,2007年8月・9月号の磯田道史氏「拝見・武士の家計簿」と石川英輔氏「江戸っ子に学ぶお金の使い方」は実におもしろく江戸時代を考察する上で参考になる。

石川英輔氏「江戸っ子に学ぶお金の使い方」に紹介・抜き書きされている『文政年間漫録』を転載してみる。

大工の収支

日当を銀五匁四分,年間の稼働日を二九四日とすれば,5.4×294=1587.6,つまり年収銀一貫五八七匁六分となる。支出は,夫婦と子供一人が食べる米を三石五斗四升として銀一貫三五四匁,家賃一二〇匁,調味料,薪炭など七○○匁,道具・家具一二○匁,衣服一二○匁,交際費一○○匁。合計一貫五一四匁だから,収入との差額つまり残る金が年間で七三匁六分になる。

野菜の行商人

六○○文か七○○文の元手を持ち,天秤棒につけた菜籠を担いで早朝に家を出る。かぶ菜,大根,蓮根,芋を仕入れて一日売り歩き,日が西に傾く頃に家に帰り着くと,菜籠の中には一にぎりぐらいの野菜が残っているが,これは翌朝の味噌汁の実にする。

家では妻と二人の子供が昼寝しているので,夫は家に入って菜籠を置き,かまどに薪をくべてから財布を取り出し,明日の元手を取りのけてから家賃分を竹筒に入れていると,目を覚ました妻が,米も味噌も醤油もないというので二五十文渡す。子供も菓子を買いたいというので一二,三文を与える。あとに残ったのは一○○文か二○○文程度だ。

これについて石川氏は次のように解説している。

一人前の大工は,日雇人足などより社会的地位が高いため,賃金はこのように銀勘定だが,実際の支払いは一匁=一○八文として銭つまり銅貨で支払ったそうだ。…

一年で一両ぐらい残った計算になる。

 …中略…

具体的な計算を示すと,平均すれば元手六五○文で,食費二五○文,菓子代一三文,家賃の日割分を二○文として合計二八三文のほかに一五○文残る。…

実際は,毎日一五○文の全額を残せないだろうから,手元に残ったのが半分だったとしても,三両か四両だ。しかも,この男には妻と二人の子供がいる。文政年間(1818〜30)頃,江戸の女性人口は男性人口より二○パーセントぐらい少なかったから,結婚できない男が大勢いた。…

『文政年間漫録』の著者は,これをぎりぎりの生活をしている例としてあげているが,天秤棒に野菜籠をつけて売り歩いていても,三人の家族を養ってなおこれだけ残った。

江戸の庶民が働く気にさえなればそこそこの収入があり安楽に暮らすことができた理由のひとつに,衣食住の費用が安かったことがある。着物は使い古すまで仕立て直しに染め直しができ,古着屋で安価な着物も買えた。主食の米価も一升が100文ぐらいだから安値だ。住居費も,長屋の家賃は平均で月額500文から600文程度で,大工の日当程度である。二階付きの長屋でも月に10匁で,二日分である。さらに,江戸は家事が多かったので家財道具は最小限にしていた。

教育費も寺子屋の月謝が月に200文くらいで,大工の日当の3分の1程度である。

税金に関してはほとんど払っていないといってもいいだろう。幕府の運上金・冥加金など商人に営業税を課すことがあったが,それも表に店を開いている商人が対象であった。また,土地に対する公役銀という固定資産税にしても,五小間=京間の100坪あたり一年間で銀30匁だった。銀30匁は大工の日当の五日分程度である。公役銀は,借地や借家の地代,家賃として細分化して分担したため,負担分はほとんどないに等しかった。江戸の庶民は金や物に対する執着心が薄かったともいえる。

江戸時代の庶民生活を収支から考えてみると,従来言われてきたような武士が贅沢三昧をして一般庶民が貧しく苦しい日々の生活を送っていたイメージとは実態がちがうことがわかる。これは人口が多く大消費都市であった江戸だからともいえるが,地方都市においてもそれほどの大差はないのではないだろうか。人口に合わせた生産−流通−消費の経済関係が成立しているはずだし,経済のシステムに大きな差もないはずだからだ。現在の東京や大阪と岡山の差ほどではないだろうか。どちらにしても,従来の歴史認識は,貧富の差,貧困,窮乏のイメージを強調しすぎていたように思う。

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2010年08月15日

時代考証

ちょっと前までの日本人は,江戸時代をあたかも暗黒の時代であるかのごとく思いこんでいました。
農民は重税に苦しめられ,士農工商という厳然たる身分制度にしばられ,さらに鎖国によって世界の進歩から取り残されてしまった。そんなイメージが一般的でした。
でも,それは完全に誤った認識なのです。

実は江戸時代の農民の税は現代よりも軽く,身分制度もけっこういいかげんなものだったのです。実際,庶民でもお金を出せば武士になれましたから。また,貿易額は膨大で,海外交流もかなり盛んに行われていました。
つまり,けっして息苦しい世の中ではなかったのです。だからこそ,260年という気の遠くなるような長期間,江戸幕府は政権をにぎりつづけることができたわけです。

では,どうして,マイナスイメージがつくられてしまったのでしょう。
おそらくそれは,幕府を倒した明治政府の戦略でしょう。前政権をおとしめ,暴政だったと喧伝することで,新しい政権の正当性を国民に納得させようとしたのではないでしょうか。さらにそれを,明治時代の御用学者たちが,史実であるかのごとく語ったため,江戸時代=暗黒時代といった固定観念が定着してしまったのだと思われます。

これは,『世界一おもしろい江戸の授業』(河合敦)の「はじめに」の一文である。

「部落史の見直し」によって教科書における部落史関連の記述が大きく改訂されたが,実は歴史教科書そのものも見直されてきている。未だ十分に反映されてはいないが,江戸時代ブームを背景に,今まで定説のように教科書に記述されてきた事柄がまちがっていたり,別の解釈があったりと,歴史の新事実や新しい歴史観によって歴史そのものが見直されている。特に,今までの教科書による歴史認識が政治史中心で,政治や出来事の解説であったのに対して,民衆史からの生活や文化を中心とした歴史が語られるようになり,従来の歴史像が大きく転換されてきたように思う。

この1年ほど,部落史の背景を知る目的で買い集めた歴史関係,特に江戸時代についての雑学的な書物から意外なほどに学ぶことが多かった。これら江戸時代に関する雑学的な書物などを<寄せ集めて>まとめてみようと思う。寄せ集めであれ何であれ,それらを集成したものが歴史である以上,総体的に歴史をとらえるための大切な基礎知識であると思う。

山本博文氏や中江克己氏の著作,歴史の謎を探る会編『江戸のしきたり』『江戸の商い』など,また石川英輔氏の『大江戸庶民事情』等を材料(参考)に,江戸時代の「寄せ鍋」を料理してみよう。


江戸時代中期,江戸の人口は100万人を超えていたと推定される。半分は武士であったが,残りの半分は商人や職人といった町人であった。しかし,居住地は,武家地が69%を占め,ほかに寺社地が15%を占めていたため,町地は16%しかなかった。

武家地には,一万石の大名でも2500坪はある大名屋敷から旗本,わずか100石でも300坪はあった御家人の屋敷まで広大な屋敷があった。町人のなかにも表通りに面した表店と呼ぶ広い屋敷に住む者もいたが,大半の町人は裏通りにつくられた裏店(裏長屋)と称する粗末な共同集合住宅に住んでいた。

長屋は,長方形の棟に6部屋が基本になって,一部屋の広さは台所と土間を含めて六畳一間,もちろん風呂とトイレは付いていなかった。六畳のうちの一畳半は土間になっていて,ここに竈と台所がおかれ,板敷きの四畳半の隅には蒲団などの荷物がまとめてあった。実際の居住空間は三畳ほどだと思われる。隣とは薄い板壁で,柱も細く,屋根は柿板(こけらいた)葺きであった。

たいていの長屋は,2棟セットで向かい合って建てられ,1メートルの路地の真ん中に下水が流れ,邑久に共同便所や井戸があった。

長屋の家賃は,一般的には1000文(1文=50円とすれば5万円)程度だった。なかには棟割長屋という通常の六畳一間をさらに半分に仕切って貸す場合もあった。家賃は300文くらいであった。

江戸の町数は,正徳三(1713)年頃に933町あったという。これだけの広範囲を江戸町奉行配下の与力(各25人)・同心(各120人)で治安を維持するのはたいへんなことであった。そこで,幕府がとった政策が「町人による自治組織」である。町人の中より選んだ「町年寄」三人を頂点にして,その下に「町名主」・「家主」というようにピラミッド型の管理システムによる自治組織を整えたのである。

町年寄は,徳川家が江戸を領国としたころより縁の深い「奈良屋・樽屋・喜多村」の三つの商家が世襲制でつとめた。町年寄は,町人ながら苗字帯刀が許され,正月には登城・将軍拝謁ができるほど家格が高く,町政全体を統括する立場であった。

「奈良屋」は三町年寄の筆頭で,出身地である奈良を屋号にした。本姓は小笠原氏で,初代の小笠原小太郎は,天正十年(1582)の本能寺の変の際に,家康が「伊賀越え」でにげたときの功労者である。

「樽屋」の先祖は三河以来の旗本である。徳川家と同郷の三河城主水野氏の出身で,水野弥吉と称した。三方ヶ原の合戦で戦功があり,家康から「樽三四郎」の名を賜り,家康の江戸入国で町人支配役となった。

「喜多村家」の初代は家康とともに江戸に入国して町人支配を命じられた文五郎である。「御馬御飼料御用」と「関八州連雀商札座」「長崎意図割符年寄」を兼ねていた。つまり,幕府の馬草と行商人,輸入糸の取締を一手に引き受けていた。二代目は,婿の彦右衛門で,加賀の薬種商と廻船業の家の出身であり,家康が加賀藩主前田利家に依頼して登用した。

これら町年寄の仕事は,政令(お触れ)の伝達,町奉行からの調査依頼,市中の土地の地割り,地代や運常勤の徴収と上納,各町の名主の任免,水道などの維持管理,等々がある。つまり,町奉行と町人の間にたって,江戸の行政と治安維持を担当していたのである。

町年寄は正月三日に,無官の大名とともに江戸城に登城して将軍にお目見えした。譜代大名の席である「帝鑑間」の敷居外に詰め,そこから正面に進んで,献上物を前にして将軍に拝謁した。

町名主も多くは世襲で,担当する町の町政に関する実務を担当した。奉行所が出す通達(町触れ)を伝達したり,人別帳の作成・管理,不動産の登記,町人の諍いの調停などをしたりした。人数は約200人くらいで,いくつかの町を兼ねていた。町年寄が大店の主人であるのに対して,町名主は専業で,ほかに仕事を持たなかった。自宅を開放して町政を司り,町費から手当が支払われた。また,全員が同格ではなく,草創(くさわけ:元土豪)・古町(こちょう:江戸開府以来の者)・平(ひら)・門前(もんぜん)という四ランクに分けられていた。

土地売り渡し証文を「沽券」という。今日の「沽券にかかわる」という言葉は,「沽券」を持った町人身分であることに由来する。

町年寄・町名主の他に,町内に家屋敷を持つ「家持」,他の町内に居住し町内に屋敷地を持つ「地主」がいた。これらの人々が正規の町人であり,幕府への奉公である国役や,人足役である公役を屋敷地の間口の広さに応じて分担し,町を運営する町入用費を負担した。貸家や裏店住まいの商人や職人は,正式な町人ではないので税負担はなかった。

家主は,貸家の管理者である大家(家守)がつとめた。長屋の持ち主から建物や住人の管理を任された雇い人として,店子から家賃を徴収したり賃貸借契約をしたり,建物の維持管理や修繕をおこなった。また,町奉行配下の町役人として,人別帳にかかわる店子の状態を把握し,通行手形発行など願い出の取り次ぎも行った。店子から犯罪者が出ると管理責任を問われるため,店子の面倒と監視は義務でもあった。

大家の収入は長屋の持ち主からもらう給料であるが,他に「共同トイレ」の屎尿を農家に売って得る代金も収入であった。十軒長屋には二つの共同トイレがあり,「総後架(上方は雪隠)」といったが,一年の屎尿が5両になったそうである。

大家たちによって組織された自治組織が「五人組」で,本来は地主たちが組織するものだが,大家たちに代行させていた。五人組は,ふだんは自身番屋という町内に設けられた番所に当番制(月番)で詰め,町名主の代役として町内の政務を行った。これを「月行事」という。大家までが「町役人」とされた。

具体的な用務は,町名主からのお触れを町内に伝達,訴訟や届け出の確認,検使や見分の立ち会い,罪人や囚人の預かり,火消し人足の差配,町内の整備,火の番,夜回りなどである。

この大家の人数は二万百十七人と決まっていた。欠員が出たときは「大家株」を買って仲間入りすることもできた。この株の値段は,差配する長屋の規模によって,二十両から二百両と幅があった。百両の株の規模の大家は,地主から二十両の給金がでた。さらに長屋の住民が引っ越してくると,三ヶ月分の家賃を礼金として受け取った。


江戸時代に藩という呼称はなかった。国や城下町の名,藩主の姓などで領国を呼んでいた。藩という言葉は,古代中国の諸侯たちが自分の領国を「藩屏」と称したのが始まりで,江戸時代半ばより一部の学者が使うようになったが一般には広まらなかった。

藩を使うようになったのは,明治政府が大名の領地とその支配機構を「藩」と公称したのが始まりである。

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