2010年09月12日

遊女と遊郭の略史

別冊歴史読本『歴史の中の聖地・悪所・被差別民』に所載されている「悪所理解のための遊女・遊郭の略史」(竜野努)をもとに,遊女の歴史をまとめておきたい。


春を鬻ぐ女性の歴史は,近世以前と以後では公権力の管理という点で大きく変わる。近世以前は,遊女・傀儡・白拍子といった人々が,特異な芸を売り物としてその生を全うしていた。近世に入ると,吉原に代表されるような特殊地区で男に奉仕して生きていくこととになる。

【古代】

芸能者は「乞食所行」とか「河原者」と見下され,芸能を演じる者は「遊行者」として蔑視されて卑賤の扱いを受けてきた。その一方で,芸能の民は神事に関わる者でもあり,古代の「遊部」は神に奉仕し,遊女も神に仕えることを条件とする女性であった。

「遊」の字は『字統』によると「旗を立てて外に旅する」ことが原義で,元来は「神霊の遊行」を意味した,とする。遊芸はもともと「神遊び」と同義語で,この世を超越して神々と共にある状態のことのようである。

平安時代までは「遊女」と書いて「あそびめ」と読み,遊芸人の性格を持つ巫女であった。

【平安末から中世】

遊女が最も得意とした芸は「雑芸」と称される「今様」「朗詠」であった。今様は朗詠にやや遅れて十世紀末頃から盛んとなり,遊女・白拍子の間で大流行し,後に貴紳の間にも広まっていく。

遊女は「あそび」「あそびめ」「遊行女婦(うかれめ)」「傾城」などと称された。水辺に住んで小舟を操って客を求めた遊女に対し,陸地の宿々に拠った者が「傀儡」である。傀儡女とも呼ばれるように,その中には女性も多く,奇術・幻術を舞わせ,女は化粧して今様を謡って客を引いた。傀儡の中には定住する者もいたが,多くは放浪,巡行する集団で,宿駅,都市など人の集中する地区に多く出没した。

遊女の存在は遊女屋が成立していたことを示し,遊女屋の背後では人買いや身売りが行われていたことが想像できる。中世末期には城下町や門前町の発展とともに遊女の数はさらに増加し,近世になると豊臣秀吉が京・大坂に遊郭を設置して官許の公娼制度が始まることとなる。

【白拍子】

白拍子の特徴は「男舞」であること。水干に袴姿の男装で,鼓を伴奏にして舞いながら雑芸を謡う。白拍子とはもともと仏教の声明道の語で,大寺の延年の舞のときなどに童僧が謡ったのが元といわれ,長く寺院に帰属していた。

遊女・傀儡が今様・朗詠を謡うのみで舞うことはほとんどなかったのに対し,白拍子が舞を伴っていたのは,多くの記録に「舞女」「舞伎」と表現されていることでもわかる。男装は尚武の気風に見合ったため,白拍子は平安末期より武家の間で愛されていく。たとえば,仏御前は平清盛に,静御前は源義経に,亀菊は後鳥羽上皇に寵愛された。

白拍子の舞は,後の曲舞などの芸能に受け継がれ,能の『娘道成寺』などにも取り入れられて歌舞伎の舞踏にその命脈を見ることができる。

最初は京で流行した白拍子は,やがて鎌倉などの東国にも広まるが,遊女や傀儡のように宿を仕事の根拠地とはせず,貴顕の邸宅に推参して舞い謡った。

鎌倉時代には公卿の間に「白拍子腹」といわれる子が多く見られ,異数の出世を遂げた例も数多い。遊女・傀儡・白拍子とも貴人に対し芸を施し,その芸の代償として寵愛を受けた。

【近世】

歌舞伎の創始者は,出雲阿国という女性で,芸能団を組織して諸国をめぐり,慶長8年から女性が男装して謡い踊る歌舞伎踊り(阿国歌舞伎)を演じ始めた。慶長10年(1605)以降,遊女による歌舞伎踊り(遊女歌舞伎・女歌舞伎)が全国的に大流行した。

近世初頭は,江戸をはじめ各地の都市に遊里が固定していった時代で,遊里に置かれた遊女屋は座を組織して売色の初見的な宣伝として遊女歌舞伎を興行していった。この遊女歌舞伎は寛永6年(1629)に,風紀を乱すとの理由で禁じられるまで続いた。その後,歌舞伎は若衆歌舞伎の時代へと移っていく。

【吉原】

江戸時代,京都の島原,大坂の新町などとともに幕府公認の遊廓として栄え続けた吉原は,庄司甚内という茶屋の主が徳川家康に遊女屋を一ヶ所に集めたい旨の申請を出したことに始まる。遊女屋が町の中に散らばっていると町人は遊興にふけり,身を持ち崩す者も出る。一カ所に集めて長逗留できぬようにすれば放埒も減る。また,娘を「妾奉公」や「遊女奉公」に出すなどの不届き者も監視でき,公許の遊廓ならば怪しい人物の探索も容易であるとの理由であった。

願いが出された7年後の元和3年(1617),日本橋葺屋町の低湿の土地を埋め立て,昼間だけの営業が許可された。これを元吉原という。遊女は一定区域から出てはならず,家を普請するときは派手な飾りは禁じられ,怪しい客は取り調べるとの達しが出ている。

遊女屋17軒,揚屋24軒があった。

江戸の町が拡張されていくにつれ,吉原も中心地に近くなり,風紀上・都市計画上で好ましくないと移転の計画が持ち上がった頃,明暦の大火で市中の半分が焼亡したため,吉原は浅草観音裏へと移っていく。

三千人の遊女がいた新吉原は約三万坪の広さで,周囲は一面の田圃であった。吉原には,貸座敷(遊女屋)101軒,引手茶屋48軒,芸者屋29軒の三組合があった。

貸座敷は,大見世,中見世,小見世に分かれ,客の財力や階層で使い分けた。貸座敷は6〜7人ほどの花魁を抱え,客を迎えた。引手茶屋は,貸座敷に行く客をもてなし,案内するところで,芸者衆,幇間も詰めていた。

官許された遊廓とは別に,江戸市中には岡場所と呼ばれる私娼が集まる歓楽場所があった。街道の宿場などに多く見られた。

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江戸の基礎知識(2):武士語

八幡和郎監修『武士語でござる』より紹介する。武士語に関して多角的・多面的に説明していて興味深い。


武士語の起源

享保七(1722)年,江戸には,直参旗本が5205人,御家人が17399人,合計22604人,その家族が約9万人。さらに家来とその家族,奉公人が約10万人で,おおよそ21万人ほどが幕臣関係であった。
大名家は約280家あり,家臣とその家族,約10万人の中間などの奉公人を合わせて約28万人ほどいたとされ,さらに浪人やその家族などを含めると,武士関係の人口は約52〜3万人いたと考えられている。
江戸の町方の人口も,武士関係の人口とほぼ同数で,さらに僧侶や神官,遊女,賤民などを加えて,江戸の総人口は約百十万人ほどであった。

この江戸の町について「言葉」を切り口に考えてみると,いろいろなことが見えてくる。

武士語の始まりは,徳川家康が武蔵・相模・伊豆・下総・上総・上野の六カ国を手中に収め,関東二百四十万石の領主となり,家臣団を相模や三河から呼び寄せて以降,仕官を求めて各地から武士が江戸に流れ込み,さまざまな言葉が混じり合うようになってからである。

まず徳川家に祖先から臣従してきた家臣たちが譜代大名になったため,大名家の半数以上が三河と駿河(愛知県)の出身であった。彼らが幕府の要職を占めていることで,彼らと意志を通じて事をうまく運ぶためには「三河言葉(訛り」が使えなければならなかった。三河訛りの言葉以外にも,地方の武士が参勤交代など江戸への往来道中や江戸において他国の武士たちと会話をするのに支障を来さないで意思の疎通をはかるために武士共通の言葉が必要となった。その武士共通の言葉は,全国の武士に浸透していた謡曲や狂言をもとにしたもので,武士語として誕生した時期は寛永・元禄の頃とされている。しかし,狂言をもとにした武士語は堅苦しく,庶民は浄瑠璃をもとに共通語にしていった。


幕府崩壊後の明治新政府では,政府役人同士の会話は互いの国訛りがひどくて会話が成立せず,手紙で使う「候文」を言葉としてそのまま発音して会話を成り立たせていた。海軍では「了解した」の言葉を「ヨウソロ」と言っていたが,これは「よう候」のことである。

「〜です」は,太鼓持ちといわれる幇間などの芸人が客に対して遜ったときに使っていた言葉で,品のいい表現ではなかった。武士は「〜でございます」と言い,女房は「〜でござんす」と言った。これが明治以降に,「です」に統一されたのである。
「〜でございます」の「ます」は軽い丁寧語で,「〜であります」は山口県の方言で長州藩閥が自国の言葉を軍隊用語に使用したからだと言われている。

江戸の町人の中・上級の家では娘を行儀見習いのために身分の高い武家の屋敷に奉公に出したが,このときに身につけた武家言葉が徐々に庶民に広まったのである。しかし,上級武士の言葉とちがって下級武士の言葉は「六方言葉」と言われる粗野な関東方言を取り入れた乱暴な言葉遣いであった。

言葉の頭に促音や撥音を入れて詰まらせる言葉が基本で,ひっぱる・ひっつく・ひったくる・うっちゃる,などがある。言葉の最後に「こい」をつけるものとして,ぬるっこい・ひやっこい,など。「いやだ」を「やだ」のように音が脱落するもの。独特の形容詞では,でかい・だだびろい,などがあり,副詞では,なんのかんの・ちょいと・ちっとも・やたらに,などがある。これらは現代語にもなっていて,普通に使われている。

江戸の武士語が全国に広まった理由の一つは参勤交代で,武士が国元と江戸を行き来したため,言葉も各地に広まったのである。だが,それでも地方訛りは江戸では通じず,「江戸言葉」の手引き書が作られもした。


武士の名前

武士の名前は成長するにつれて変わっていく。武士の名は大きく分けて「名字」「名乗り」「諱」の三つがある。

「遠山の金さん」のフルネームは,遠山左衛門尉景元である。最初の「遠山」が名字である。「左衛門尉」は,本来は官位で,幕府が朝廷に奏請して,旗本は将軍に御目見得すると六位の官位を,役を持つと五位の官位を叙任された。五位以下は幕府高家が年頭に上洛したおり,叙任の位記と宣旨をまとめて持ち帰り交付した。左衛門尉は,本来宮城を守護する左衛門府の三等官に当たるが,江戸時代は名目化しており実態はない。

景元が「諱」である。「諱」は武士にとっての実名で,変えることのできない最後の名ということから「忌み名=諱」という。他人の諱は通常は口にしてはならない。なぜなら,諱はその人の肉体の一部であって,諱での呼びかけはたいへんに無礼なことであった。

武士は普段は「通り名」で呼ばれている。官名が通り名になった。平右衛門とか源兵衛などの通り名は一家の主人が代々受け継ぐ場合もあった。これは右衛門や左衛門に,兵衛や助・介・丞・大夫などを付けたもので,奈良や平安時代の武官名であった。武士は,源氏・平氏・藤原氏・橘氏の出身が多く武士の四大姓であった。そして,源氏の出身なら源兵衛・源右衛門,平氏なら平右衛門・平兵衛,藤原氏なら藤兵衛などのように,通り名に付けて出自を表すことが多かった。

熊谷次郎とか三浦三郎などのように,武士が自分の領地の名前を名乗るようになったことから,領地を「名(みよう)」といったので「名字」となったといわれている。

大奥では,お城に奉公したときに「御名下され」で名をもらい,本名をそのまま使うことはできなくなる。御殿は名前によって役職がわかるようになっているため,役職が変わると名も変わった。側室に上がって「中掾vになると,大奥特有の「おの字免許」で,名の上に「お」の字が許された。さらに将軍の子どもを産むと「方の字免許」で,名の下に「方」の字が許されたのである。町方の自由さとは異なっていたことがわかる。


呼び名

武士は自分のことを「某(それがし)」「身共(みども)」「手前」「拙者」などと一人称代名詞で表したが,将軍は「身共」とは言うが「拙者」とは絶対に言わなかった。「身共」は同輩やそれ以下の者に対して自分を表す武士語であり,「拙者」は自分を謙遜して使う言葉であった。「余」は「われ」の意味で,通常は殿様など身分の高い武士が,家来などに自分のことを指すときに使った。本来の意味は「余り者」で,殿様が「家臣の枠の外の者」として区別するために使った。

相手の呼び方は,身分の高い者が目下の家来などに対して呼びかける「そち」は「そちらの」を略した呼び名であった。「そなた」も同様の呼びかけに使った武士語である。「貴様」は,身分や地位,価値が高いものを表す「貴」に,「様もよき人」にように品格や人格を表す「様」が付き,「あなたさま」という意味となった。主に,武士の書簡などで,目上の人に対して用いられたが,やがて敬意の意味が落ちて,目下か同輩の者に用いられた,さらに相手を罵る言葉になっていった。「様」は「寂しげな様」というように,姿や形を表すときに用いられた。「貴殿」は,本来は相手を敬って,その居館を呼ぶ語であったが,やがて人に対して用いられるようになった。同輩に親愛の気持ちを表す語としても用いられた。「貴公」は,同輩の者に用いられた。「そこもと」は,武士が使った二人称で,やや目下の者に使われた。

「下郎」は宮中で低い官位の「下臈」から転じた言葉で,下賤の者という意味で使われるようになり,やがて「下郎」の字が当てられるようになった。身分の低い男を罵って使う言葉である。

大名や旗本は「殿様」と呼ばれ,御目見得以下の御家人は「旦那様」と呼ばれた。

武士の妻たちも夫の身分によって呼び方が変わった。将軍の正室は天下の台所を支配するという意味から「御台所(みだいどころ)」といい,略して「御台様」と呼ばれた。

御三家や御三卿の正室は,簾の中の貴婦人という意味で「御簾中(ごれんちゅう)」と呼ばれ,大名や高家,旗本の妻は「奥方様」とか「奥様」と呼ばれた。御家人の妻は「御新造様」と呼ばれた。

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古文書の読み方

「古文書が読める」というのは,文字の字面をただ技術的に読めることだけを意味するのではない。一字一句を正確に読み,細部の解釈や語句の意味にこだわり,疑問に思った点や,解釈が難しい点,わからない部分をごまかすことなく,可能な限り正確に読み解き,当時の人々の眼線に立つ努力をしながら,その背後にある歴史社会の全体像に迫ること,そうすることで,過去を生きた人々と対話すること,これこそが「古文書が読める」ことの本当の意味であろう。

『史料を読み解く2 近世の村と町』「本書を学ぶ読者へ」

これは何も史料としての古文書を読み解くことだけに適用されるものではない。あらゆる文献や資料の読解にも通じる姿勢である。文献の時代背景や社会状況,社会通念なども十分に考慮して読解していくことが何よりも重要である。逆に自己流の解釈や憶測・推測・思い込みからの解釈は本来の意図や内容とは遠くかけ離れたものになってしまい,不正確な読解となる。何事においても,偏見や先入観からの独断を廃して,作者の意図を正確に読み取ることが大事である。

古文書においては「原文」を読み下すことは相当の慣れが必要であるし,専門家は別として古文書に触れる機会もそれほど多くない者にとっては,それほどの必要性はないと思う。むしろ,活字となった「釈文」や「読み下し文」を正確に読みこなすことの方が大切である。

ここでは,「釈文」を読み下す場合に必要な基礎知識をまとめておこうと思う。「釈文」には,変体仮名のような独特の読み方や意味をもつもの,慣用表現が多い。これらを例示して覚えておくと,わりと楽に読むことができる。

本来は「変体仮名」などは半角で表記すべきだが,Web上での表記が難しい場合もあり,そのままに全角で表示するかひらがな(読み下し)で表記している。

変体仮名

江(え)・而(て)・与(と)・者(は)・茂(も)・而巳(のみ)・可(か)・志(し)・堂(た)・多(た)・婦(ふ)・連(れ)・王(わ)〆(しめ)・于(に)

慣用句・特別な読み方

斗(ばかり)・抔(など)・間敷(まじく,まじき)・紛敷(まぎらわしき)・六ヶ敷(むつかしき)

かならず返って読む

被(被仰付:おおせつけられ)・可(可被仰付:おおせつけらるべき,可致:いたすべき)・不(不相知:あいしれず,不及:およぼす)・無(無之:これなく,無拠:よんどころなく)・有(有之:これあり)・於(於福岡:福岡において,於有之:これあるにおいて)・就(就夫:それについて)

返る場合も返らない場合もある文字

為(「させる」「なす」「たる」「として」と読む場合は返る,被為仰付候:おおせつけさせられそうろう,為後日:ごじつのため)・及(及差支御達及候:さしつかえおよびおたっしおよびそうろう)

疑問・接続等を示す文字

哉(や:だろうか)・欤(か:あるいは)・条(ので)・間(ので)・并(ならびに:そして)

くり返しの記号

ゞ(ひらがな・濁音)・ゝ(ひらがな)・ヽ(カタカナ)


武家文書

古文書を読んでいると,最初は「くずし字」に悪戦苦闘するが,同じ文言が何度も出てくるのでいつしかなんとなく読めるようになる。所詮,言葉であり文字である。しかも外国語ではなく日本語である。ただ,コツはある。その一つが「独特の言い回し」を抜き出して覚えてしまうことだ。外国語のフレーズ(熟語・慣用句)と同じである。

農村文書や願(訴)状の最初の行には,「乍恐以書付御願奉申上候」がよくある。「恐れながら,書き付けをもって,お願い申し上げ奉り候」である。

他にも「被仰付候」(仰せ付けられ候),「可得御意候」(御意を得べく候),「無御座候得共」(ござなく候えども)「成間敷候」(なるまじく候),「可被下候」(下さるべく候)などという言い回しがよく書かれているので,こうした熟語をまずは覚えることから始めると結構わかってくる。

また,現代語では使わない用法を理解することだ。それは「御」や「可」「候」「被」「為」などや,変体仮名と助詞である。これもフレーズで覚えてしまう。

「可被仰聞由」(おおせきけらるべきよし),「可有御座候間」(ござるべくそうろうあいだ),「可被思召候」(おぼしめさるべくそうろう),「成間敷候」(なるまじくそうろう),「奉存候」(ぞんじたてまつりそうろう),「以面可申入候」(めんをもってもうしいるべくそうろう:会ってからお話しします),「被成」(なされ),「被為成」(なさせられ)などがある。

尊敬語,謙譲語も武家文書の特徴である。身分間の上下関係のきびしさと,礼節を重んじたことがわかって興味深い。「令」(せしめ)は謙譲の意を示す。手紙文などには,「態以書状令申候」(わざとしょじょうをもってもうさしめそうろう),「一筆令啓上候」(いっぴつけいじょうせしめそうろう)という冒頭の文言が多い。

上記の例は,『江戸時代を探検する』(山本博文)より引用したが,歴史関係の本,部落史も同様だが,史料引用の場合に,読みとして「ルビ」がふってあったり,現代語訳が併記してあったりすることがある。専門書や論文では少ないが,一般向けの本では親切である。そんなとき,独特のフレーズを抜き出してノートに書き留めておくとよいと思う。

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江戸の基礎知識(1)

時刻の呼び方

江戸時代は,一日24時間を12に分け,干支の十二支で呼んだ。一時(いっとき)は約2時間で,日の出(明六つ)から日の入り(暮六つ)までを6等分して「昼」とし,それ以外を「夜」とした。1時間は一時の半分だから,半時(はんとき),さらに短い時間は,一時を上中下に三分割して「子の上刻」「未の下刻」と呼んだ。また,一時を30分ずつ4分割して一つ,二つ,三つということもあった。怪談話で「草木も眠る丑三つ時」がその例である。

午前0時  九ツ 子の刻    午前1時 九ツ半 子の中刻
午前2時  八ツ 丑の刻    午前3時 八ツ半 丑の中刻
午前4時  七ツ 寅の刻    午前5時 七ツ半 寅の中刻
午前6時  六ツ 卯の刻    午前7時 六ツ半 卯の中刻
午前8時  五ツ 辰の刻    午前9時 五ツ半 辰の中刻
午前10時  四ツ 巳の刻   午前11時 四ツ半 巳の中刻
午後0時  九ツ 午の刻    午後1時 九ツ半 午の中刻
午後2時  八ツ 未の刻    午後3時 八ツ半 未の中刻
午後4時  七ツ 申の刻    午後5時 七ツ半 申の中刻
午後6時  六ツ 酉の刻    午後7時 六ツ半 酉の中刻
午後8時  五ツ 戌の刻    午後9時 五ツ半 戌の中刻
午後10時  四ツ 亥の刻    午後11時 四ツ半 亥の中刻

江戸時代は,江戸城では太鼓,町では社寺の鐘などによって時刻が知らされた。


方位

十二支で表したものに「方位」がある。北は「子」,東は「卯」,南は「午」,西は「酉」で,北東は「艮(うしとら)」,南東は「巽(たつみ)」,南西は「坤(ひつじさる)」,北西は「乾(いぬい)」というように表した。


尺貫法換算表(明治8年の統一値)

長さ

一丈=10尺=3.03m
1尺=10寸=30.3cm
1寸=10分=3.03cm
1分=3mm

距離

1里=36町=3.93km
1町=60間=109m
1間=6尺=1.82m
1尺=30.3cm

面積

1町=10反=3000坪=99a
1反(段)=10畝=9.9a
1畝=30坪=99m2
1坪(歩)=6尺平方=3.3u
1尺平方=0.09u

重さ

1貫=1000匁=3.75kg
1斤=160匁=600g
1匁=3.75g

容積

1石=10斗=100升=0.18キロリットル
1斗=10升=18リットル
1升=10合=1.8リットル
1勺=0.018リットル

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武士の窮乏

知行とは「領地から年貢を徴収する権利」であり,石高で示される。1石は米150sほどにある。江戸時代では米1石が金一両だった。現在の銘柄米10s6000円で換算すれば,約9万円であるが,江戸時代は米の値段が他の物価に比べて高かったので,必ずしも実態を判明したものではない。日本銀行貨幣博物館では,職人の手間賃などから考えて,1両を30〜40万円と試算して,実態に近いものとしている。金1両は,江戸中期までは銭4貫文,後期になると6貫文くらいになり,1貫文は1000文だから,換算すれば,銭1文は66円から100円ほどであった。

三田村鳶魚の「文政年間漫録」(『未刊随筆百種』所収)に,三百石取りの武士の年間家計を推測している。それによると,三百石の武士は,寛永の軍役規定で,侍二人,具足持ち一人,槍持ち一人,挟箱持ち一人,馬取り二人,草履取り一人,小荷駄(荷物を運ばせる馬,あるいはその馬をひく人足)二人の計十人の家来が必要であった。侍二人は武士身分で給金が一人四両,具足持ちなどの中間は武家奉公人で給金が二十両かかった。馬の秣代が年間九両かかり,その他にも家来の飯代や武具・家具などの経費を合計すると,生活は厳しかった。


藩士に領地(知行地)を与える給与方式を「地方知行」といい,いったん藩に納入された米を支給する給与方式を「俸禄知行」といった。17世紀半頃から,藩財政や武士の家財政の窮乏化によって,藩士の知行が地方知行制から俸禄知行制へと改革されていった。

下級武士は,知行ではなく,米やお金で給料をもらう身分であった。これらの武士の給料は「五十俵三人扶持」と表示された。米五十俵を「切米」といい,三人扶持を「扶持米」といった。これは米俵五十俵分の米と,奉公人の飯米(食糧)三人分を支給されることを意味する。「切米」は一部を米でもらって飯米とし,一部は換金して貨幣で受け取った。

なぜ武士は窮乏化していったのか。『大江戸「懐」事情』(小林弘忠)を参考にまとめてみる。

生産労働者ではない武士は,扶持米のほかに現金収入はなく,俸給の範囲内で生計を立てなければならず,それも年俸の米を売って暮らすしかなかった。

武士の俸禄は,家格に応じて決められている「家禄」であり,俸禄が上がるのは昇格しての加増か,あるいは出世して役職に就いてもらえる役手当しかなかった。この給与体系が江戸時代270年間を通じて変わらなかったのである。身分は世襲だから,よほどのことがないかぎり禄高は増加しない。

武士が幕府や藩から支給される知行(俸禄)の形態は,次の5つに大別できる。

地方知行(所領を与えられ,その村からの年貢を受ける)
蔵米知行(幕府の御蔵から1俵3.5斗の米俵を年3回に分けて受ける)
両者併用の知行
扶持米知行(1日5合の割で日々の扶持米を月割でもらう)
蔵米と扶持米との併用の知行

幕府は,1日に1人が使用(消費)する米の量を5合(0.9リットル)と決めていたので,1人の年間米消費量は,5合×350日=1石7斗5升となる。1俵は通常4斗であるが,幕府は3斗5升で算出したので,1人分を俵換算すると,5俵となる。ですから,50俵十人扶持では,50俵+(5俵×10人)=100俵となる。町奉行の同心クラスの御家人はだいたいが30俵2人扶持であった。俵計算では年40俵,つまり現金14両が生計費である。食べる米を差し引くとほとんど残らないから内職を手がけるしかなかった。

【知行旗本(500石)の場合】

収入(禄高) 500石(500両:7500万円)
実収入 500石×0.4(四公六民)=200石=2000俵
※ 家族3人+家臣ら6人の年間米消費量 5俵×9=45俵
現金換算 195両(約2932万円)

支出

家族・家臣らの生活費   70両
家臣の給与・衣服費    30両
諸雑費・教育費        65両
儀礼費             20両
屋敷の修繕費         15両
計         200両(3000万円)

【蔵米知行(100俵)旗本の場合】

収入(年収) 100俵×3石5斗=350斗=35石(525万円)
※ 家族3人+家来3人の年間米消費量 1石7斗5升×6=10石5斗
現金換算  24.5両(万円)

支出 

家臣らの年俸・衣服費  9両(135万円)
儀礼費          10両(150万円)
生活費           5両(75万円)
1石1両,1両15万円として計算

この表からわかるのは,儀礼費の多さである。江戸時代は,礼儀を重んじることを奨励したため年中,付け届けなどを余儀なくされ,これに伴う出費が膨大であった。正月の上役へのあいさつ,同僚の出産,親の死亡,子どもの元服と,年中金品を届けなくてはならなかった。「常是包」という金を包む熨斗袋が常備され,就職したり昇格したりしたときは,上役らを招いて開く馬代(車代)付きの「御昵懇の宴」も儀式化されていた。

次に,家臣の給与と衣服代である。武家は所定の兵員を常時抱えておくのが忠義の証であった。三百石取りで7人は必要とされていた。用人・門衛・若党・下男・下女など家臣の生活費,衣服費,給与が家計を圧迫していた。家臣十五人の一千石の旗本では,人件費は30%を占めている。

何より米で受け取った俸禄を換金して生活しなければならない武士にとって,米相場による米価が即生活に響いた。江戸中期からは「米価安の諸色高」となり,米の値段が安いのに諸色(諸物価)が高くなった。米が安いと売却しても禄高より実入りが少なくなり,さらに物価高が加わって武士の生活を困窮化させたのである。
しかし反面,町人や大名屋敷からの付け届けがある町奉行配下の同心や,役職によっては将軍からの下賜品や大名からの報奨金など頂戴物があり,これらが生活費を補っていた。

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リサイクル社会

江戸時代が高度なリサイクル社会であったことは周知の事実である。消費された物品の9割が再利用されたといわれている。

傘は油紙で作られたが,破れたら新しい紙に張り替えて使用した。破れた油紙は,鮮魚や漬物などの包み紙として使用した。番傘の値段が二百文から三百文程度,高級品の蛇の目傘はその倍以上したため,庶民は古傘を使った。

「古傘買い」が買い集めたものを傘屋は再生して売り出したが,骨を削り直して新しい紙を貼るのは浪人の内職仕事であった。古傘の骨を利用して「凧」を作る者もいた。凧一枚は十四文ほどで売れた。

不用になったものを買い取る商売も盛んで,服は古着屋が,道具は小道具屋が引き取った。

江戸時代,織物や染物は手間がかかり,非常に高価なものだったので,庶民は古着を身につけた。この古着はいくども洗い張りをし,仕立て直しをして大切に着た。冬は袷を着るが,袷がなければ単衣を二枚合わせ綿を入れて着た。夏には綿を抜き単衣にして着た。自分が着られなくなると,小さく作り直して子どもに着せた。その後は,雑巾にしたり下駄の鼻緒にしたりした。江戸中期には,古着商売に関わる人間は三千人を超えていた。

古着買いのなかには「湯灌場買い」を専門にする者もいた。湯灌とは,死んだ人を棺に納める前に身体を拭き清めることで,寺の近くに湯灌場が設けられていた。自宅で湯灌することは禁じられていたため,湯灌の世話にならざるをえない。湯灌が終わったら死に装束を着せ,納棺する。湯灌場買いは,湯灌場に出かけ,不用になった死者の着物を買って歩いた。この着物は一度ほどいて洗い張りされ,古着屋の店先に並べられた。

道端の紙屑も紙屑拾いが拾い集めて「浅草紙」に再生した。江戸時代の和紙は10ミリ以上の長い植物繊維でつくられ,添加物もないので,容易に漉き返すことができたので,紙のリサイクルも行うことができた。紙屑拾いは,集めた紙屑を「立場(たてば)」と称する問屋に持ち込み,買い取ってもらった。これを買い取った浅草山谷の職人や千住あたりの農村が副業として紙漉きを行った。紙屑を煮て溶かし,冷やしてから漉いた。冷えるまですることがないので,浅草山谷の職人が吉原を見物してきた。これが「冷やかす」の語源と言われている。この浅草紙は百枚百文ほどで売られていた。

中江克己氏の『お江戸の意外な商売事情』より,いくつか紹介する。

【とっかえべえ】

壊れた鍋,折れた火箸,錆びて仕えなくなった包丁や鋏などの古鉄と飴を取り替える行商人である。古鉄買いは古着屋や質屋などと同じく,幕府が盗品の売買防止のために定めた業種だが,「とかえべえ」は正規の古鉄買い組合に属さず,下請けのようなものだった。

【蝋燭の流れ買い】

蝋燭は奈良時代に伝わったが,室町後期には,櫨や漆の実を原料とした木蝋が生産されるようになった。江戸時代になると,櫨や漆を作る農家が増えて蝋燭も量産されるようになったが,たいへんな手間と過酷な肉体労働,熟練した技術が必要であったため,高価であった。
大工の一日の手間賃が五百文という時代に,「百目蝋燭」は1本二百文だった。
蝋燭の溶けて流れた「蝋涙」を秤で目方を量って買い取った商売である。買い取った「蝋涙」は再び溶かして新しい蝋燭に再生した。
また,溶かした蝋を丸や四角の型に入れて固めて売った。これは引戸の滑りをよくするために桟に塗ったり,木製品や廊下の艶出しなどに使った。あるいは,液状になった蝋を紙に塗って蝋紙にし,合羽や傘の防水に使ったりした。

【おちゃない】

落髪を集めて,かもじ(添え髪)を作る業者もいた。この落髪を買い歩く業者を「おちゃない」(「落ち髪はないか」)という。主に女たちの仕事で,買い集めた落髪を風呂敷包みを頭にのせて歩いた。

【貸褌】

江戸時代,男のおしゃれは,尻っぱしょりの「見せ褌」であった。褌は必需品であったが,布は高級品なので,新品を誂えるというのは庶民にはむずかしいことであった。
賭博場で元手に困ったときにお金を借りる鉄火質では,晒木綿の褌を質草にすると,銭一貫文(千文)借りられるほどの値打であった。
「貸褌」は,まず最初に二百四十八文を払って,新しい六尺褌を購入する。褌が汚れたときに店に行き,六十文出すと,選択したての新しい褌を出してくれるというシステムである。では,古くなった褌はどうするかというと,中形に染めて(中ぐらいの大きさの模様を型染めしたもの)仕立物にして田舎に送った。高価な物が流通しない田舎では,古着や中古の端布が商売になった。

江戸時代,トイレは「雪隠」といったが,武家屋敷には小便所と大便所が組になって設けられていた。町屋でも同じであった。裏長屋は「総後架」と呼ばる共同のトイレで,踏板を渡しただけの簡単な構造で扉は半分しかなかった。大便所と小便所が分かれて設けられていた理由は,大便を畑の肥料として,近郊の百姓に売ったからである。

江戸城の汲み取りの権利を持っていたのは,葛飾郡葛西領にある約六十ヵ村であった。この村に住む葛西権四郎を名乗る家が権利を持っていた。葛西権四郎は鎌倉時代以来の名門であったが,家康の江戸入国により葛西に土着して農民となり,汲み取りの権利を与えられた。

毎日,葛西権四郎は船二艘で,和田倉門外の「辰口」まで漕ぎ寄せて,城の塵芥を積んで葛西に送った。大奥の長局の下掃除も権利として与えられて汲み取った。また,江戸城だけでなく江戸市中の多くの汲み取りを担当した。
葛西船は,朝は野菜を積んで青物市場に降ろし,帰りに肥樽百六十個ほどを満載にして葛西に帰った。江戸後期には,専門の肥船業者や汲み取り業者,肥の売買をする会所もつくられた。
肥会所では,糞の相場も立った。
特上は「きんばん」と呼ばれ,幕府や大名者敷の勤番者の糞で,最高品とされた。次が上等の「辻肥」で,街頭にある辻便所の糞であった。中等が「町肥」と呼ばれる一般町屋の糞,それから下等の「たれこみ」(小便が多い)や「お屋敷」(牢獄)であった。
値段は,一樽が二十五文,一艘が約一両であった。農村では「船一艘は一町株」といわれ,肥船を一艘持っていると,田畑一町分の儲けがあったといわれた。

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2010年09月11日

教科書では大名(藩)の財政破綻や武士の生活困窮は記述されても,その原因,特に歴史背景としての(間接的)原因についてはほとんど説明されていない。参勤交代や普請など,幕府が各藩の支出増大を目的として政策的に大名への負担を強いたことや,商品経済の浸透と飢饉などによる年貢の停滞などが理由として簡単に記述されているだけである。参勤交代は江戸と領国の二重生活による負担増だけでなく,拝領地なので地代はいらないが,上屋敷・中屋敷・下屋敷と広大な江戸藩邸の維持も大変な出費であり,また石高(家格)による従事させる家臣数や支度も膨大な出費となる。また,江戸での生活では,付届けや献上品,手土産,歓待など日常の付き合い,家臣や小者などへの給金などにも費用がかかっている。これは,大名だけでなく家臣も同じであり,旗本・御家人も同様である。

収入の増加が少ない割に支出が増大していったのが江戸時代,特に中期以降である。凶作による年貢減少,幕府からの普請命令,物価高,消費生活費の増大など,幕府・藩・旗本や御家人・家臣の財政難は深刻であった。しかし,家格に応じた格式は守らなければならず,それに伴う出費は致し方なかった。それでも,幕府や藩は経費の削減と商品作物・特産物の専売制や商業政策による増収をはかる改革を断行し続けた。しかし,成功した例は少ない。岡山藩もまた失敗している。

ただし,これらの舞台が「江戸」であり,各藩における政治社会体制や支配のしくみ,城下と郡部(農村部)の実態などとは異なることの方が多いと思う。もちろん,幕府の政治や江戸の行政組織,武士の格式や庶民の日常生活などについては,模倣(参照)も流行もあったと思うが,末端組織や地方行政などは近隣の幕府領における代官支配とも異なる独自性は強かったように思う。

岡山県でも,備前の岡山藩,美作の津山藩・美作勝山藩,備中の庭瀬藩・芦森藩。生坂藩・浅尾藩・岡田藩・鴨方藩・備中松山藩・新見藩の諸藩があり,幕府領も点在していた。藩の形態はほぼ同じであって,石高・家臣の数・領地の規模などの違いから職制だけでなく支配の実態も異なり,独自のものがあった。この意味において,穢多・非人など雑賤民(被差別身分)の実態や支配体制も異なっていたと考える。

幕府権力は,中世以来の支配システムを改良しつつ,その当時の実態に即して,家臣である武士はもちろん,民衆を掌握・支配する体制を構築していったと考えている。その方策として「身分制度」があり,その支配・統治・収奪(収集)の一端として「治安維持」「皮革業」「雑業」を穢多・非人などの雑賤民に負担させたと考えている。つまり彼等を「機能的集団」として掌握していったのである。そのあり方・社会的位置づけが,その地方(各藩)によって独自性をもっていたと考える。

歴史の個別研究をおこなう際,その前提として通史的な全体把握とともに,現代の価値観や認識とは異なる各時代の社会観や認識を理解しておく必要がある。たとえば,衣食住など日常生活,物価,税体制,さらには各時代独自の社会状況(身分制や支配体制など)を把握する必要がある。

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官職と位階

水戸光圀のことを,時代劇などで「黄門様」と呼ぶことが多い。「黄門」とは,日本の官名である「中納言」の唐名(からな)である。唐名とは,令制の官名を唐制で呼んだ名で,太政大臣が「相国(しょうこく)」,左大臣が「左府(さふ)」,右大臣が「右府(うふ)」,内大臣が「内府(だいふ)」である。「丞相(じょうしょう)」「相府(しょうふ)」も大臣の唐名である。大納言はの唐名は「亜相」で,「亜」は準ずるの意味で,「丞相」すなわち大臣に亜(つ)ぐ高官の意味がある。中納言の下は参議で,「宰相」という。この参議以上の官にある者,あるいは位階が三位以上の者が「公卿」である。

少納言は公卿の下にあって侍従を兼ね,天皇の側近に奉仕する要職であったが,身分は低く,「蔵人」ができてからは閑職であった。唐名は「門下給事中」である。

正一位とか従一位は「位階」であって,官職に対応している。中納言は必ず三位以上,大臣は二位,太政大臣は一位である。浅野内匠頭は「朝散大夫」という従五位下の唐名で,「内匠頭という官職を持つ従五位下の位階」の人である。因みに,内匠頭とは,内匠寮という調度品の製作にあたる部署の長官を表す。中央の役所では,寮の長官が「頭」,司(采女司:下級女官の管理をする部署の長官)や監(主膳監:東宮の食事を司った役所の長官など)の長官は「正」,「大夫」は職(中宮職・京職・大膳職・修理職など)の長官,「督」は兵衛府の長官というように部署によってちがっていた。地方の役所の長官は「守」であった。四等官は表記にかかわらず,長官が「かみ」,次官が「すけ」,判官が「じょう」,主典が「さかん」と読んだ。「かみ」は最上位を表し,「すけ」は補佐の意,「じょう」は唐の一部官庁で三等官の呼称とされていた「丞」の借音,「さかん」は補佐官を意味する「左官」にそれぞれ由来する。

このように,それぞれの官職には,本来の役目があったが,江戸時代の大名の官職には実体がなく,単に「名」であった。

「位階」とは官吏の序列である。律令制下の位階制においては,親王に対する位階は品位として別途四階(四品:しほん)が定められた。位階の順位は,正一位・従一位・正二位・従二位というように……従八位までと,その下に大初位・少初位となっており,正四位からはさらに上・下と分かれていた。

江戸時代の大名は,おおむね従五位下に任じられ,それ以上は,家格や在職年数によって,四品(無官の従四位下),侍従(従四位下),近衛府の次官である少将,中将と昇進していった。近衛府の長官は従三位相当である。


日本律令制では,官人はまず位階によって序列化され,そして位階に応じた官職が与えられていた。位階を主として官職を従とする官位システムを官位相当制という。具体的には,官位令に基づいて位階ごとに就任可能な官職が厳密に定められ,ある官職で実績・評価を重ねたとしても,唐のように官職の昇進を受けるのではなく,まず位階の昇進を受けて,その後に昇進後の位階に相当する官職の就任資格を得るのが原則であった。ただし,様々な事情により位階と官職の相当関係が成立していない事例も発生した。その場合,位階相当よりも高い官職にある場合には「行」,反対に位階相当より低い官職にある場合には「守」と呼称した。

徳川家康が江戸幕府を開くと,官位を武士の統制の手段として利用しつつも,その制度改革に乗り出した。まず,禁中並公家諸法度により武家官位を員外官(いんがいのかん)とすることによって,公家官位と切り離した。これによって武士の官位保有が公家の昇進の妨げになる事態を防止した。少将,中将,中納言,大納言などの官職を権官として任じたことも,そのあらわれである。また,武家の官位の任命者は事実上将軍とし,大名家や旗本が朝廷から直接昇進推挙を受けた場合でも,将軍の許可を受けねばならなかった。

大名に与える官位は,位階は従五位下(諸大夫・五位),一般大名は従四位下(四品)とし,官職は,侍従・権少将・権中将・参議(宰相)・権中納言(黄門)・権大納言(亜相)とした。老中は「従四位下侍従」,御三家は尾張と紀伊が「大納言」,水戸が「中納言」であった。

これらの武家官位について,伺候席席次を官位の先任順としたり,一部の伺候席を四品以上の席とするなどして,格差をつける。その上で,大名家により初官や昇進の早さを微妙に変えるなどして家格の差を生ぜしめた。

なお,武家官位では,「〜守」「〜頭」等の官名の名乗りは官位とはされず,叙爵された者が称しているものとされた。ただし,この官名の名乗りにおいても幕府の許可が必要であり,一部の官名に特例を設けるなどして大名統制にも利用している。つまり,武家官位は,幕府が内示を与えた時点で,官職と位階が認められ,官職は自分で選べたのである。ただし,大廊下・大広間詰め大名以外の老中と同一名乗りの禁止や国持大名以外の領国名使用など,様々な制限(規制)があった。

松平姓の国持大名による領国名優先使用では,加賀前田家(幕府より松平姓を賜る)の「加賀守」,越前松平家の「越前守」などがある。大藩の国持大名による領国名優先使用では,仙台伊達家の「陸奥守」,薩摩島津家の「薩摩守」,福岡黒田家の「筑前守」などがある。

この武家官位は,幕府にとって安上がりな権威付けであるとともに,朝廷にとっても貴重な収入源であった。官職を決めたら大名家が京都に使いを出して正式な書類をもらうことになっていたが,次第に,その役目を高家(幕府の儀式・典礼,朝廷への使節,伊勢神宮・日光東照宮への代参,勅使の接待,朝廷との間の諸礼をつかさどった家で,室町時代以来の名家である大沢・武田・畠山・大友・吉良など26家が世襲した)が代行するようになった。

官位をもらうときは,家臣を公卿(三位以上の公家)のところに遣わして,口宣案や宣旨などの書類をつくってもらうが,大名家と公卿の間に立つ業者への手数料も含めて,費用は諸大夫で40両,中将だと200両くらいであった。ただし,老中への御礼はもっと必要であった。


今回は,フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』と,山本博文氏の『江戸学講座』『江戸の金・女・出世』を参考・引用させてもらった。

最後に,山本氏の『江戸の金・女・出世』より「日本人の名前は官位に由来?」より抜粋引用しておく。

朝廷の官位制度においては,五位までが殿上人として優遇された。地下の者(平民)にとって,四位以上の位階はいかに金品を積んでも無理だが,五位ならば与えられた。
五位に任じられた惣村の乙名(長老)は,名前に五位の唐名である「大夫」をつけた。たとえば,森鴎外の小説で有名な「山椒大夫」も五位の位を貰った在地の有力者だったと考えられる。
五位に任じられるのは惣村の有力者に限られるが,他の有力な者も名前に官職を思わせる呼称をつけるようになった。
たとえば,次郎だった者が,惣村の中で地位を上げると,末尾に「兵衛」をつけて次郎兵衛と称したり,勘助だった者が「右衛門」をつけて勘右衛門と称したりしたのである。

江戸時代の大商人である三井家では,本家が八郎右衛門を称するから,番頭や手代クラスだと,孫次郎とか忠三郎とかいう名前で,兵衛や右衛門はつけない。下男にいたっては,本名とは別に権助とか五助といった下男としての名前を持つことになる。
名前に官名に由来するものをつけるのは…現在も似たような事例はある。たとえば隼人という名前の人がいるが,これももとは「隼人正」に由来する。…「大介」は,もとは「おほすけ」と読んで,知行国守である「守」のことである。…「大輔」はもとは各省の次官だ…

官位・官職などと武家の名の関係を考えれば,朝廷の権威が武家社会にも影響を及ぼしていることがわかる。因みに,大名は互いを,内匠頭とか上野介とか官職名で呼び合っていた。将軍の前では,御三家・五摂家以外は,老中でも若年寄でも,その人がいる前では「伊勢」とか「美濃」とか「内膳」というように互いを呼び捨てにしていた。また,相手のことを「自分」といい,自分のことはなるべく「自分の名」を言い,「わたくし」とは言わなかった。なぜなら,将軍が「わたくし」と言うからである。これも儀礼である。


山本博文氏の『日本人の心 武士道入門』(中経文庫)を参考に,官職と位階について補足しておく。

官途受領

武士の名前に「兵衛」「右衛門」「左衛門」などの名前がある。これらは「官途受領」と呼ばれ,朝廷の官位をもとにした名前であった。右衛門・左衛門とは,御所を警護する「衛門府」のことで,これが左右の二部署あった。正式の官職であれば,右衛門府では,右衛門督(かみ:長官)・右衛門佐(すけ:次官)・右衛門尉(じょう:判官)となる。

戦国大名は,これらの官位に類似する名前を「官途受領」と称して家臣に与えていたのである。このような名前を与えられることは「一人前の武士」であると認められることでもあった。長州藩の留守居役に福間彦右衛門尉という人物がいるが,「彦右衛門大尉」という官職はなく,長州藩が与えた名前であった。「尉」は次第に省略されていった。「兵衛」も兵衛府のことで,勘兵衛(かんびょうえ)が本来の読み方で,これも官途受領であった。


受領名

陸奥守(伊達家)・大隅守(島津家)・長門守(毛利家)などの名前は「受領名」である。

受領とは,国司四等官のうち,現地に赴任して行政責任を負う筆頭者を平安時代以後に呼んだ呼称である。

室町時代以降,守護大名の間で武功のある家臣や被官に対して,朝廷の正式な位階や除目の伴わない非公式な官名を授けるようになり,これを受領名といった。多くの場合,大名の傘下にあって城や領地,兵力を有する国人や武将がその対象となり,主君から受領名を授かることは,武家の格式と功名をあらわす栄誉として重んじられるようになった。

江戸時代になると,朝廷の官位は幕府が規制することになり,官位を名前に付けることを遠慮するようになった

江戸時代の大名の名前は,朝廷によって授けられた官位であるが,実質的な意味はない。たとえば,吉良上野介の「上野介」,浅野内匠頭の「内匠頭」も官位である。彼らはそれぞれ「義央(よしなか)」「長矩(ながのり)」という実名をもっているが,実名で呼ぶことは失礼であったので「諱(いみな:言うことをはばかるという意味)」とも言った。

上野介は上野国(群馬県)の次官であり,内匠頭は内匠寮の長官という官位であった。

国名の官職で「守」がつくのは,その国の国司であることを示しているが,実体はない。律令制の国数は68国しかなく,大名の数は250人ほどもいるため,国名だけでは足りず,「内匠頭」「右京大夫」など中央政府の役所の官職をもらう者も多くいた。

右大臣・内大臣・征夷大将軍(従二位から従一位):徳川宗家の当主
大納言:亜相(正三位):将軍世子・尾張徳川家・紀伊徳川家
中納言:黄門(従三位):水戸徳川家
参議:宰相(正四位下から正四位上):前田家(加賀藩)
中将(従四位上から正四位上):伊達家(仙台藩)・島津家(薩摩藩)
少将(従四位下から従四位上):中位の国持大名
侍従(従四位下):下位の国持大名・老中・京都所司代・準国持大名
四品(従四位下):準国持大名・20年位上在任の大名
諸大夫(従五位下):一般の大名

旗本も,遠国奉行位上の役職に任命されると従五位下に除せられ,官職名を名乗ることを許された。大岡越前守や遠山左衛門尉の「越前守」や「左衛門尉」が官職である。

大名も旗本も,官職で名乗れること自体が大きな名誉であったが,官職名は朝廷や幕府が決めるものではなく,自分が決めてよいものであった。幕府が官位を与えることを内示すると,大名は老中などと相談して好きな官職を付けた。

遠山の金さん(遠山金四郎景元)は,小納戸から小納戸頭取,小姓頭取,小普請奉行を経て町奉行になります。小普請奉行になると,従五位下の位階をもらい,何かしらの官職を与えられます。そこで,金さんは,左衛門尉という官職を選んだのです。…なぜ尉(判官)かといえば,衛門府の格式は高く,判官が従五位下相当だったからです。…

このように,江戸時代に武士は,通称と諱とのい二つの名前を持っていたのです。こうした風習は,明治時代になって,名前を二つ持つことが禁じられてからすたれました。

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江戸の女性

『世界一おもしろい江戸の授業』(河合敦)を参考にまとめてみる。

江戸中期に成立した『女大学』は,明治時代まで女性道徳の教科書のように学校や家庭で読まれ,儒教の教えに基づく女性の模範的な生き方が細かく記されていた。この『女大学』は,『養生訓』の著者である貝原益軒が書いた『和俗童子訓』を抜粋して編纂したものといわれている。

女子は,幼きときより男女の別を正して,かりそめにもたわむれたることを見聞せしむべからず。古の礼に,男女は席を同じうせず,衣裳も同所におかず,同じところにて浴みせず,…
婦人は別に主君なし。夫を主人と思い,敬い謹みてつかうべし。軽しめ,侮るべからず

男尊女卑の差別観で貫かれているが,これは基本的に武家の婦女子に向けた「武士の妻」の心得を書いたものである。江戸時代,女性は家内を整え守るのが最も重要な仕事であり,夫を陰から支えるのがつとめとされた。家長も男性に限られ,女性は相続人にもなれなかった。嫁のつとめは後継者である男子を産むことであり,不妊女性は軽蔑され,離婚されてしまうこともあった。

しかし,これは「期待される女性像」であっても,実態は必ずしもそうではなかった。武家の家庭や社会では,このような女性軽視の待遇もあったかもしれないが,庶民の世界では女性の社会的役割は大きく,商家のみならず外で働く女性は多かった。農漁村にいたっては,農作業はもちろん機織りなどの副業,漁獲した魚の処理はもちろん海藻を採ったり,アワビ・サザエを獲ったりする仕事に従事したのが女性たちであるから,『慶安の御触書』に書かれているような実態では必ずしもなかった。


男尊女卑の代名詞といわれる「三行半」はしても,旦那が一方的に奥さんを離縁状一枚で追い出してしまうと解釈されてきたが,実際は離婚の際に男性が女性に差し出さなくてはならない再婚許可状であった。

其方事,我ら勝手につき,このたび離縁いたし候,しかる上は向後何方へ縁付候とも,差しかまえこれ無く候,よって件のごとし

女性の中には,将来嫌いになったらすぐに離別できるように,結婚前に夫に三行半を書かせておいた者や,離婚を夫に強く迫り三行半を書かせて,他の男と家を飛び出した者もいた。逆に旦那から妻を離縁しようとする場合には,持参金を全額返済したうえ,妻に落ち度がなければ,慰謝料を払わなければならなかった。さらに,再婚許可状である三行半を渡すのは夫の義務であり,それを行わなければ処罰された。しかし,女性に離婚を請求できる権利はなく,夫が三行半を出さなければ離婚は成立しなかった。そのため,離婚を求めても夫が応じてくれない妻たちは「縁切寺」に逃げ込むしかなかった。

縁切寺で有名なのは鎌倉の「東慶寺」である。この寺は,北条時宗の妻であった覚山尼が創建した寺で,豊臣秀頼の娘であった二十代住職の天秀尼が徳川家康に,寺に駆け込んだ妻を必ず離婚させることができる「御寺法」の永続を願い出て許されて以降,江戸時代を通じて治外法権が与えられた。

東慶寺に駆け込んだ女性は,境内にある役所で寺役人より吟味を受ける。事情を聞いた寺役人は飛脚を使って関係者を集め協議離婚をすすめる。これを「内済離縁」という。ほとんどの場合,この段階で三行半を渡したようである。まだ夫側が応じない場合,出役達書(寺役人が出張裁判に出向く旨を書いた通達)を夫の住む村の名主あてに送る。これでも応じない場合,寺役人は実際に村の名主にもとまで出向き,「寺法書」を渡します。これに承服できない場合,夫は「違背書」を寺社奉行に提出する。すると,夫は奉行所に呼び出され「仮牢入りだぞ」と脅かされ,最終的には詫び状を書かされ,離婚に承諾させられる。これを「寺法離縁」という。この場合,女性は1年間,寺で厳しい生活をすることを義務づけられることになる。

明治4年,女性にも離婚請求権が認められたことで,東慶寺は歴史的な役割を終え,「御寺法」も消滅した。

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江戸幕府の組織(1)

武士身分の三分法

武士の身分階層は,上士・平士・下士の三つの身分に分かれる。幕府も藩も,三つの身分を基本にして組織を作り上げていった。

上士 … 家老や組頭などを務める家柄

家老は,実際に藩政をおこない,藩によって奉行や用人などとも称された。
組頭は,平士を束ねる上級家臣で,領地をもつ場合が多い。

平士 … 知行(領地のことで,石高で示される)を取る武士のうち,上士を除いたもの。

本来は騎馬の格で,組頭に統率されて藩主の馬の廻りにいて護衛にあたるので「馬廻」とも言う。
藩の実務は,平士のうちから選抜された者によって担われる。城下町を支配する町奉行,農村を支配する郡奉行,下士を統率する物頭,江戸留守居役などの役職がある。
平士身分の位置は,知行の額で示される。
百石取りの武士なら「鑓一筋の家」とされ,鑓持ちを従えて合戦に従軍する格である。「鑓」は武士が使うもので,「槍」は足軽が使うものである。
三百石取りの武士ならば,馬に乗り,死角となる鑓脇を家来の「侍」に守らせて合戦に従軍する。
千石取り以上は,騎馬の軍団を指揮する格で,上士である組頭になる。

下士 … 徒士(徒歩で従軍する下級武士)や,物書(下級の書記役)である。

知行は持たず,藩の蔵から給料として米を支給される武士である。その身分は,三十俵五人扶持というように年収で表示される。石でなく俵で表示されるのは,藩の蔵から俵に入った米を支給されるからである。

武士の身分の違いは,家臣の持ち方,服装,態度,言葉,婚姻のあり方など,武士の生活すべてにおいてちがった。

上士は上士同士が原則であるが,上士は平士の上層とは縁組が結ばれることもあったが,平士は下士とは決して縁組することはなかった。下士は下士同士で縁組し,百姓や町人とも縁組を結ぶこともあった。言葉遣いでは,平士は下士に「貴様」といい,下士は平士に「あなた」と呼ばなければならなかった。

足軽は,往来で上士にあったとき,下駄を脱いで路上に平伏しなければならなかった。

この身分序列を幕府組織にあてはめれば,譜代大名と三千石以上の旗本が上士,三千石未満の旗本が平士,御家人が下士に相当する。


幕府の軍事組織

老中 ― 大番頭       ― 組頭     ― 番士

         書院番頭   ― 組頭 ― 番士

若年寄  小姓組番頭  ― 組頭 ― 番士

 新番頭     ― 組頭  ― 番士

    小十人頭 ― 組頭     ― 番士

    徒頭    ― 組頭         ― 徒士

両番とは,将軍の身辺を警護する軍事組織である「書院番」と「小姓組番」を指す。代々,これらの番に配属される家を「両番家筋」と称した。

「大番」は,徳川家の軍事組織の中核で,両番に次ぐ「番」である。江戸城では二の丸や西丸の警備に当たり,二組ずつ交代で,二条城や大阪城の警備に出張した。「大番家筋」の旗本は,知行三百石以上で,騎馬の格である。

寛永二十年(1643)に設置された「新番」と,徒士格の旗本の軍事組織である「小十人組」がある。これらを総称して「五番方」という。

役職に就かず,番に配属されない(番入できない)旗本は「小普請」と呼ばれ「小普請組」に支配された。無役であるかわりに,知行百石につき金一両の小普請請金を上納した。

書院番は八組あり,それぞれに番頭がいる。一組は番士五十人によって構成され,番頭には番士のほか与力十騎と同心二十人が預けられた。番士の中から一人が組頭となった。

小姓組番は,寛永期に六組,のちに西丸に四組の十組ある。

大番は,十二組あり,十二人の大番頭がいるが, 一組の番士五十人の上に四人の大番組頭がいた。大番は,戦いの時には先鋒に派遣されるので,その部隊の長である大番頭は,両番の頭よりも格上であった。組頭や番士は,両番の方が格上とされた。

「両番家筋」の旗本は,家督を継ぐと,書院番か小姓組番に配属され,優秀な者は,徒頭,小十人組頭,使番などを経て目付となり,さらに遠国奉行に昇進していく。


大名・上級旗本の官位

右大臣・内大臣・征夷大将軍(従二位から従一位) 徳川宗家の当主

大納言(亜相)(従二位) 将軍世子,尾張徳川家,紀伊徳川家

中納言(黄門)(従三位) 水戸徳川家

参議(宰相)(正四位下から従三位) 前田家(加賀藩)

中将(従四位上から正四位上) 伊達家(仙台藩),島津家(薩摩藩)

少将(従四位下から従四位上) 中位の国持大名

侍従(従四位下) 下位の国持大名,老中,京都所司代,準国持大名

四品(従四位下) 準国持大名,長年に亘って在任の大名

諸大夫(従五位下)

一般大名,側衆,駿府城代,伏見奉行,留守居,大番頭,書院番頭
小姓組番頭,大目付,町奉行,勘定奉行,長崎奉行など

布衣(六位相当)

小普請組支配,新番頭,御広敷用人,大阪船手頭,目付,使番
書院番組頭,小姓組組頭など

布衣とは,江戸城での儀式に着用する礼服の一つで,朝廷の位階では六位相当の格式である。布衣役には,次のような役職の者が任じられた。

小普請組支配(小普請の旗本のとりまとめ役)
新番頭(新番の責任者)
持弓頭(弓隊の隊長)
持筒頭(鉄砲隊の隊長)
大阪船手頭(大阪の水軍の責任者)
目付(幕臣の監察)
使番(諸大名への使者を務める)
書院番組頭(書院番の司令官である書院番頭の補佐)
小姓組組頭(小姓組の司令官である小姓組番頭の補佐)
駿府勤番組頭(駿府城警備隊の分隊長)
西丸御裏門番頭(江戸城西丸裏門警備の責任者)
徒頭(徒歩で従軍する御徒の隊長)
小十人頭(小十人組の隊長)
船手頭(江戸の水軍の責任者)
御納戸頭(将軍の身の回りの物を管理する責任者)
御腰物奉行(将軍の刀剣を管理する責任者)
御鷹匠頭(将軍の鷹を管理する鷹匠の責任者)
勘定吟味役(幕府財政を監査する役)
                       など

目付は,幕臣の監察にあたる役職であり,老中や若年寄の手足として様々な諮問に与り,同僚の素行調査なども命じられた。旗本は五千人ほどもいるが,その中でわずかに十人しかいない。格式として布衣役の上にあるい遠国奉行などの諸大夫役も,目付から昇進する者が多かった。


御徒

御徒や鉄砲組同心など下級幕臣の屋敷地は,「組屋敷」に組単位であたえられた。御徒一人あたりの屋敷地は,本所錦糸堀で二百坪,深川元町で百三十坪ほどあった。下谷は百坪であった。家作は自費であったため,玄関三畳に,八畳と六畳,それに台所と雪隠で,建坪が二十坪ほどの家であった。残りは畑にして野菜を栽培したり,地代を取って人に貸したりした。地代は,百三十坪で年間三両三分だった。

徒士組は,全部で二十組あり,一組三十人で,そのうち二人を組頭に任じて組の取締にあたらせた。組を指揮する徒頭には,両番家筋の旗本が任じられた。

徒士の世禄(代々与えられる家禄)は,七十俵五人扶持である。一俵は三斗五升入りだから,米約二十五石である。百俵につき四十両ほどなので,約二十八両ほどの収入である。
五人扶持は,一人扶持が一日玄米五合だから年間約九石である。

これらの米は,幕府の米蔵から支給されるが,三分の二は幕府公定の相場(御張紙値段)によって現金で支給され,残りの三分の一が米で支給された。この米も,自家で消費する分を除いて換金する。これらの仕事をする業者が「札差」である。

御徒の公務は,将軍の外出に随行してその警備にあたるものである。そのため,徒士は黒縮緬の羽織を支給され,公務で外出する時は,これを着用した。もし不測の事態が起こったとき,将軍は随行している御徒の中に身を隠すことになっていたからだ。

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2010年09月10日

百姓一揆と打ちこわし

貧農史観によって描かれた江戸時代の百姓は,重い年貢に苦しみながら朝早くから夜遅くまで働き,米を食べることもできず,稗や粟など雑穀で飢えをしのいだ極貧生活がイメージされるだろう。一昔前の時代劇に登場する百姓は,「カムイ伝」に描かれた貧しい百姓と似たような描写が普通であった。そして,教科書にも,家康の「百姓は生かさぬように,殺さぬように」に言葉のもとで,過酷な労働と貧しい生活,権力者・支配者である領主・武士に搾取される身分として百姓が書かれていた。資料集には,継ぎ布をあてた服を着た百姓がイラストで描かれていた。(これは今もそうだが)

しかし,近年の歴史研究によって,江戸時代は大幅に見直され,多面的な考察による新しい歴史像が描かれるようになった。「継ぎ布」を貧しくて服を新調できないと解釈するか,農作業に適するよう補強のために布をあてたと解釈するかによって,先ほどの資料集に描かれた百姓のイメージ大きく異なるだろう。


「本途物成」といわれる本年貢は,村全体の石高に対して課税され,各戸に分担を割り当てて徴収し,領主である大名や旗本などに納める「村請制」であった。この年貢率は,通常「五公五民」とか「四公六民」のように,生産物の40〜50%であった。しかし,実際はもっと少なかった。

17世紀後半,元禄期以降,ほとんど検地を行っておらず,年貢算定の基準となる年貢高もそのままになっている。しかし,元禄期以降,日本の農業は集約型農法を取り入れ,生産力は飛躍的に向上する。また,商品作物や手工業製品の生産も盛んになり,農民の実質的な収入は増えていった。このため,百姓の実質的な収入のうち,税としての年貢は十数%にしかならないのである。

百姓は,全人口の80%以上を占め,50〜100戸からなる村に住み,室町時代からの惣の伝統を受けついで山野・用水を共同で管理し,田植えなどの農作業を助け合いました。村には,土地をもつ本百姓と,土地をもたない水呑百姓との区別があり,本百姓のなかから庄屋(名主)・組頭・百姓代などの村役人を出し,寄合によって村を運営しました。

(『中学社会 歴史的分野』大阪書籍)

中学校の教科書では,本百姓と水呑百姓を「土地」所有の有無で区別しているとしか書いておらず,くわしい相違についての説明はない。高校の教科書では,「水呑百姓」について「村内には田・畑を持たず,地主のもとで小作を営んだり,日用(日雇)仕事に従事する水呑(無高)」(『詳説日本史B』山川出版)と記述されている。

未だ従前の「貧農史観」による,貧しく惨めな百姓観から書かれている。自分の田畑がないので地主から借りて耕作し高い小作料を支払っているため,日雇いにも行かなければ生活できないほど貧しい,というイメージを想像してしまう。

これも一面的な解釈,固定観念からの思い込みである。「田畑を持たない」は,農業が「生業」であることを前提としての理解である。農業する必要がない場合,農業意外に「生業」を持っている場合が欠落している。つまり,百姓=農民という「士農工商」を身分制度とした歴史認識が生み出した誤謬の延長上に,このような歴史錯誤が生じたのである。

網野善彦氏が調査した能登の時国家は,農業だけではなく廻船業や金融業,製塩業,鉱山業,山林の経営など多角的な事業をおこなっていた。時国家も親類も裕福な商人であるが,身分上は「水呑」であった。つまり,田畑が持てないのではなく,持つ必要のない豪商であった。さらに,時国家の「下人」と表記された友之助が,北前船の大船頭であり,千両という大金を動かすことができる立場にあった。

農村に居住しながら,農業以外の生業持ち,田畑を所有しない「百姓」身分の人々(幕府領では「水呑」であるが,藩によって身分呼称は異なっている)も多くいたのである。ただし,地主から田畑を借りて耕作する貧農の小作人が多くいたことも事実である。


18世紀後半から急速に農村に貨幣経済が浸透してきた結果,農民は茶や漆,桑などの商品作物を栽培して現金収入を得るようになる。こうして得た貨幣を貯めて土地を買い,やがて地主となり豪農となっていく者もあらわれてきた。しかし,農民がすべて勤勉であったわけでない。これは何も農民に限ったことではない。

農村に流れ込む貨幣を目的に,各地の都市から行商人が入ってくるようになる。芸人も興業をおこなうようになる。農村に商品経済が入り,娯楽も増えていくことで,博打や犯罪も増えていった。こうした状況の中,豪農になる者がいる一方で,堕落した生活で身を持ち崩した農民や,度重なる飢饉などで農産物が減少し,年貢も支払えず生活も貧窮化し,ついには高利貸しに借金を重ねて土地を手放して小作人や浮浪者となる農民も多くうまれた。つまり,貨幣経済の浸透が農村における階層分化を助長・拡大させたのである。


百姓一揆の際に,農民たち参加者が手にしていた「得者」(道具)は,鎌・棒・竹槍・斧・鉞などであるが,その中でも鎌の所持が圧倒的に多かった。これらの得者を所持する目的について,従来は家屋の打ち壊しの際の道具や領主や村役人との戦闘に対しての自衛手段と考えられてきた。

しかし近年の研究によると,打ち壊しにも殺生にも適さない鎌の所持から,百姓という自らを示すシンボルとして所持されていたと考えられている。百姓一揆を象徴する出立ちである「蓑笠」も同様のことが指摘されている。会津藩の一揆史料では,蓑笠を「百姓相応之風俗」と表現している。大和国の柳生領一揆では,「百姓之事故蓑笠ニて願出」と,百姓だから蓑笠で出願するのだと書き残されている。竹槍も鎌と同様に,殺生が目的ではない。しかし,明治維新後の一揆では竹槍による殺害が相次いでいる。岡山の解放令反対一揆でも竹槍による殺傷はおこっている。

百姓一揆に関する教科書記述には,必ず「からかさ連判状」が紹介される。一揆の首謀者を隠すためと説明されてきた。

此文言を丸き残の真中へ丸く書,何れが始終と知れさる様ニ認メ候由,是を車廻状とか申候

この一文は,貞享三年(1686)に信濃国松本藩で起きた加助騒動のときの「訴訟之事控」である。「からかさ」ではなく,本来の名称は「くるま連判」である。また,「何れが始終と知れさる様」も,首謀者を隠すことではなく,連判署名者の上下関係が存在しないことを表現するためであったと考えられている。車廻状には,宛名である大惣代の名前が書かれていることも多い。

つまり,大惣代への忠誠を誓う意味があったと考えられている。


打ちこわしを行った貧しい百姓や都市の貧民たちは,米屋や豪商の家屋を無闇矢鱈に破壊したのではない。彼らは,規律に基づいた打ちこわしのルールに則って,破壊行為を行っている。

天明三年(1783)の大飢饉は,数年前より東北地方での冷夏による凶作に加え,浅間山の噴火によって煙と灰におおわれたため日照時間が少なく気温も低下して農産物が生育できず,大凶作となったことに起因する。

このため米価は高騰し続け,買い占めをする米商人により状況はさらに悪化した。天明七年五月,深川六間堀町に住む提灯張り職人らが米商店を襲った。同じ頃,江戸の他の地域でも貧民層を中心に打ちこわしが起こり,江戸全域に拡がっていった。

打ちこわしに関する諸記録から,そのルールを拾い出してみる。

まず,火付けの厳禁である。自分たちを苦しめている米商人や富裕な商人への制裁が目的であるため,関係ない隣家まで巻き込む危険性のある放火は規制したのである。
次に,盗みなどの厳禁である。飢餓状態にある打ちこわし参加者にとって,撒き散らした米は欲しかったはずであるし,現金も欲しかっただろう。しかし,彼らは盗みを働く者への制裁を決めて厳守している。
ただの破壊行為ではなく,自分たちを苦しめている者への社会的制裁が目的であることが参加者に徹底されていたのであり,無秩序な暴徒でないことが民衆の共感を得ることを知っていたのである。

打ちこわしの対象も,地域によって異なっている。米屋だけでなく,質屋や売女屋,旅籠屋も襲われている。さらには,百姓一揆の際に「契状」(規律)を守らなかった家も打ちこわされている。


従来の歴史解釈が随分と見直されてきている。部落史の見直しとの相補的な研究により,その成果はさらに進展することだろう。そして,それら研究成果は,遅ればせながら教科書に反映されていく。ここ十数年の間でも,教科書記述は大きく変わってきた。教科書の改訂は4年ごとに行われるが,記述内容はそれ以前の研究成果しか反映されない。場合によっては,数度の改訂でも見直されることのない記述もある。


教科書を教えるのが教師という思い込みや,文科省という国家権力と教育委員会に規制されて何もできない立場にあるという先入観から教育現場を想像する人間もいるが,「学習指導要領」を一度でも読んだことがあればわかるはずだが,それほどに型にはまった規制があるわけではなく,むしろ自由裁量の幅は広い。私にしても,教科書記述にない内容や,新しい研究成果を踏まえた解釈を教えることも多い。教科書の指導書にも,さまざまな見方や考え方などが参考資料として紹介されてもいる。

ただし,断定的な価値判断だけはしないようにしている。なぜなら,言葉や表現によって,その受けとめ方や認識が大きく変わるからである。たとえば,「言う」と「豪語する」では,受け取る人間によって意味すらがちがってくることもある。

伝える人間の価値観や解釈が伝える言葉や表現に作用したり,あるがままを伝えず,恣意的に付加する言葉や表現によってそのままではなく別物を伝えてしまったりすることがある。まして,悪意があれば尚更だろう。曲解したうえに,歪曲して伝えれば,その解釈が悪意に満ちていたり,別の意図をもっていたりすれば,的外れどころかとんでもない誤謬と錯誤を招くことになり,無責任な結果を引き起こすことになる。中には,最初からそれが目的であるとしか思えない記述や,論破を目的に批判することだけに終始する論法もある。そのような文章が闊歩する中,結局は読む側の思考力や判断力が試されているのかも知れない。

posted by 藤田孝志 at 19:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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