2011年04月30日

神戸事件

      きのふみし
      夢は
      今更引かへて
      神戸かうらに
      名をやあけなむ

              正信

是,先臣瀧善三郎絶命の歌也
聞くに善三郎の死に臨むや顔色変わらず,
外夷これを見るに,膽落ち気沮う。
或いは涕泣する者あるという。
語って曰く,死は或いは泰山より重く鴻毛より軽し。
善三郎の死,いわゆる泰山より重きの類い,
ああ,これを読んで何人か泣かざらん,
況んや君臣の際においておや。明治四年辛未正月
勤王の詔忠信に下り師兵闕に趨る。
これを書しもって後世にに告ぐ。

日置忠信識す

正信とは,瀧善三郎の諱であり,日置忠信は帯刀の息子である。これは,善三郎の辞世歌であり,忠信の識した由来書とともに岡山藩主池田家に伝わったものである。


神戸事件とは,慶応4年1月11日,神戸の三宮神社前において備前藩兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させ,居留予定地の調査をおこなっていた欧米諸国公使らを射撃した事件である。

慶応4(1868)年1月3日,明治新政府は,旧幕府側の尼崎藩を牽制するため,備前(岡山)藩に摂津西宮の警備を命じた。備前藩では,1月5日までに約2千人の兵を出立させ,家老日置帯刀(ひきたてわき)率いる隊列は陸路を進んだ。

1月11日,備前藩兵の隊列が神戸三宮神社前を通りかかった時,付近の建物から出てきたフランス人水兵2人が列を横切ろうとした。これは,武家諸法度に定められた「供割」(ともわり)と呼ばれる非常に無礼な行為で,これを見た第3砲兵隊長滝善三郎が槍を持って制止に入った。しかし,言葉が通じず,強引に隊列を横切ろうとする水兵に対し,滝が槍で突きかかり軽傷を負わせてしまった。これに対して,民家に退いた水兵数人が拳銃を取り出し,それを見た滝が「鉄砲,鉄砲」と叫んだのを発砲命令と受け取った藩兵が発砲,銃撃戦に発展した。

現場にいたイギリス公使ハリー・パークスは激怒し,各国艦船に緊急事態を通達した。アメリカ海兵隊,イギリスの警備隊,フランスの水兵が備前藩兵を居留地外に追撃し,生田川の河原で銃撃戦となった。備前側では,家老日置が藩兵隊に射撃中止・撤退を命令した。

神戸に領事館を持つ列強諸国は,同日中に,居留地(外国人居留地)防衛の名目をもって神戸中心部を軍事占拠し,兵庫港に停泊する日本船舶を拿捕した。この時点では,朝廷は諸外国に対して徳川幕府から明治政府への政権移譲を宣言しておらず,伊藤俊輔(後の伊藤博文)が折衝に当たったが,決裂した。

1月15日,明治新政府は,開国和親を朝廷より宣言させるとともに,公家の東久世通禧を代表として欧米諸国の外交官と事態の沈静化に向けた交渉を開始した。

このとき,欧米列強は初めて正式な「王政復古」の通知を受けた。東久世は,天皇がすでに締結した条約すべてを尊重する意向であること,日本滞在の外国人すべての安全を保証すると確約した。

これに対する諸外国側の要求は,日本在留外国人の身柄の安全保証と,神戸事件の日本側責任者を厳重に処罰すること,すなわち滝の処刑であった。外国人側の被害に対して処罰が重すぎるとの声や,滝の行為は武士として当然であったとの意見も強かったが,ロッシュをはじめとする列国公使団の強硬な要求に明治新政府は屈した。

結局,2月2日,備前藩は諸外国側の要求を受け入れ,2月9日,兵庫の永福寺において列強外交官列席のもとで滝を切腹させるのと同時に備前藩部隊を率いた日置について謹慎を課すということで,一応の決着を見たのである。

善三郎は,事件の責任を一身に背負って切腹して果てた。享年32歳であった。その最期は古式に則った作法どおりの見事な切腹であったと伝えられている。この様子は,立ち会ったイギリス公使館員ミットフォードの著作によって海外に広く知られることになった。

岡山藩は善三郎の4歳の長男を日置家から池田家へ500石で取り立て,その忠義を称えた。


明治初期の外交問題を考える際に重要な事件であると思うが,教科書には本事件や「堺事件」の記述はない。

先日,神戸を訪れたとき,事件が起こった三宮神社を訪ねた。数人の外国人観光客が門前にて写真を撮っていたが,事件のことなど知らないだろう。

posted by 藤田孝志 at 04:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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