2010年09月12日

遊女と遊郭の略史

別冊歴史読本『歴史の中の聖地・悪所・被差別民』に所載されている「悪所理解のための遊女・遊郭の略史」(竜野努)をもとに,遊女の歴史をまとめておきたい。


春を鬻ぐ女性の歴史は,近世以前と以後では公権力の管理という点で大きく変わる。近世以前は,遊女・傀儡・白拍子といった人々が,特異な芸を売り物としてその生を全うしていた。近世に入ると,吉原に代表されるような特殊地区で男に奉仕して生きていくこととになる。

【古代】

芸能者は「乞食所行」とか「河原者」と見下され,芸能を演じる者は「遊行者」として蔑視されて卑賤の扱いを受けてきた。その一方で,芸能の民は神事に関わる者でもあり,古代の「遊部」は神に奉仕し,遊女も神に仕えることを条件とする女性であった。

「遊」の字は『字統』によると「旗を立てて外に旅する」ことが原義で,元来は「神霊の遊行」を意味した,とする。遊芸はもともと「神遊び」と同義語で,この世を超越して神々と共にある状態のことのようである。

平安時代までは「遊女」と書いて「あそびめ」と読み,遊芸人の性格を持つ巫女であった。

【平安末から中世】

遊女が最も得意とした芸は「雑芸」と称される「今様」「朗詠」であった。今様は朗詠にやや遅れて十世紀末頃から盛んとなり,遊女・白拍子の間で大流行し,後に貴紳の間にも広まっていく。

遊女は「あそび」「あそびめ」「遊行女婦(うかれめ)」「傾城」などと称された。水辺に住んで小舟を操って客を求めた遊女に対し,陸地の宿々に拠った者が「傀儡」である。傀儡女とも呼ばれるように,その中には女性も多く,奇術・幻術を舞わせ,女は化粧して今様を謡って客を引いた。傀儡の中には定住する者もいたが,多くは放浪,巡行する集団で,宿駅,都市など人の集中する地区に多く出没した。

遊女の存在は遊女屋が成立していたことを示し,遊女屋の背後では人買いや身売りが行われていたことが想像できる。中世末期には城下町や門前町の発展とともに遊女の数はさらに増加し,近世になると豊臣秀吉が京・大坂に遊郭を設置して官許の公娼制度が始まることとなる。

【白拍子】

白拍子の特徴は「男舞」であること。水干に袴姿の男装で,鼓を伴奏にして舞いながら雑芸を謡う。白拍子とはもともと仏教の声明道の語で,大寺の延年の舞のときなどに童僧が謡ったのが元といわれ,長く寺院に帰属していた。

遊女・傀儡が今様・朗詠を謡うのみで舞うことはほとんどなかったのに対し,白拍子が舞を伴っていたのは,多くの記録に「舞女」「舞伎」と表現されていることでもわかる。男装は尚武の気風に見合ったため,白拍子は平安末期より武家の間で愛されていく。たとえば,仏御前は平清盛に,静御前は源義経に,亀菊は後鳥羽上皇に寵愛された。

白拍子の舞は,後の曲舞などの芸能に受け継がれ,能の『娘道成寺』などにも取り入れられて歌舞伎の舞踏にその命脈を見ることができる。

最初は京で流行した白拍子は,やがて鎌倉などの東国にも広まるが,遊女や傀儡のように宿を仕事の根拠地とはせず,貴顕の邸宅に推参して舞い謡った。

鎌倉時代には公卿の間に「白拍子腹」といわれる子が多く見られ,異数の出世を遂げた例も数多い。遊女・傀儡・白拍子とも貴人に対し芸を施し,その芸の代償として寵愛を受けた。

【近世】

歌舞伎の創始者は,出雲阿国という女性で,芸能団を組織して諸国をめぐり,慶長8年から女性が男装して謡い踊る歌舞伎踊り(阿国歌舞伎)を演じ始めた。慶長10年(1605)以降,遊女による歌舞伎踊り(遊女歌舞伎・女歌舞伎)が全国的に大流行した。

近世初頭は,江戸をはじめ各地の都市に遊里が固定していった時代で,遊里に置かれた遊女屋は座を組織して売色の初見的な宣伝として遊女歌舞伎を興行していった。この遊女歌舞伎は寛永6年(1629)に,風紀を乱すとの理由で禁じられるまで続いた。その後,歌舞伎は若衆歌舞伎の時代へと移っていく。

【吉原】

江戸時代,京都の島原,大坂の新町などとともに幕府公認の遊廓として栄え続けた吉原は,庄司甚内という茶屋の主が徳川家康に遊女屋を一ヶ所に集めたい旨の申請を出したことに始まる。遊女屋が町の中に散らばっていると町人は遊興にふけり,身を持ち崩す者も出る。一カ所に集めて長逗留できぬようにすれば放埒も減る。また,娘を「妾奉公」や「遊女奉公」に出すなどの不届き者も監視でき,公許の遊廓ならば怪しい人物の探索も容易であるとの理由であった。

願いが出された7年後の元和3年(1617),日本橋葺屋町の低湿の土地を埋め立て,昼間だけの営業が許可された。これを元吉原という。遊女は一定区域から出てはならず,家を普請するときは派手な飾りは禁じられ,怪しい客は取り調べるとの達しが出ている。

遊女屋17軒,揚屋24軒があった。

江戸の町が拡張されていくにつれ,吉原も中心地に近くなり,風紀上・都市計画上で好ましくないと移転の計画が持ち上がった頃,明暦の大火で市中の半分が焼亡したため,吉原は浅草観音裏へと移っていく。

三千人の遊女がいた新吉原は約三万坪の広さで,周囲は一面の田圃であった。吉原には,貸座敷(遊女屋)101軒,引手茶屋48軒,芸者屋29軒の三組合があった。

貸座敷は,大見世,中見世,小見世に分かれ,客の財力や階層で使い分けた。貸座敷は6〜7人ほどの花魁を抱え,客を迎えた。引手茶屋は,貸座敷に行く客をもてなし,案内するところで,芸者衆,幇間も詰めていた。

官許された遊廓とは別に,江戸市中には岡場所と呼ばれる私娼が集まる歓楽場所があった。街道の宿場などに多く見られた。

posted by 藤田孝志 at 01:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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