2010年09月12日

江戸の基礎知識(2):武士語

八幡和郎監修『武士語でござる』より紹介する。武士語に関して多角的・多面的に説明していて興味深い。


武士語の起源

享保七(1722)年,江戸には,直参旗本が5205人,御家人が17399人,合計22604人,その家族が約9万人。さらに家来とその家族,奉公人が約10万人で,おおよそ21万人ほどが幕臣関係であった。
大名家は約280家あり,家臣とその家族,約10万人の中間などの奉公人を合わせて約28万人ほどいたとされ,さらに浪人やその家族などを含めると,武士関係の人口は約52〜3万人いたと考えられている。
江戸の町方の人口も,武士関係の人口とほぼ同数で,さらに僧侶や神官,遊女,賤民などを加えて,江戸の総人口は約百十万人ほどであった。

この江戸の町について「言葉」を切り口に考えてみると,いろいろなことが見えてくる。

武士語の始まりは,徳川家康が武蔵・相模・伊豆・下総・上総・上野の六カ国を手中に収め,関東二百四十万石の領主となり,家臣団を相模や三河から呼び寄せて以降,仕官を求めて各地から武士が江戸に流れ込み,さまざまな言葉が混じり合うようになってからである。

まず徳川家に祖先から臣従してきた家臣たちが譜代大名になったため,大名家の半数以上が三河と駿河(愛知県)の出身であった。彼らが幕府の要職を占めていることで,彼らと意志を通じて事をうまく運ぶためには「三河言葉(訛り」が使えなければならなかった。三河訛りの言葉以外にも,地方の武士が参勤交代など江戸への往来道中や江戸において他国の武士たちと会話をするのに支障を来さないで意思の疎通をはかるために武士共通の言葉が必要となった。その武士共通の言葉は,全国の武士に浸透していた謡曲や狂言をもとにしたもので,武士語として誕生した時期は寛永・元禄の頃とされている。しかし,狂言をもとにした武士語は堅苦しく,庶民は浄瑠璃をもとに共通語にしていった。


幕府崩壊後の明治新政府では,政府役人同士の会話は互いの国訛りがひどくて会話が成立せず,手紙で使う「候文」を言葉としてそのまま発音して会話を成り立たせていた。海軍では「了解した」の言葉を「ヨウソロ」と言っていたが,これは「よう候」のことである。

「〜です」は,太鼓持ちといわれる幇間などの芸人が客に対して遜ったときに使っていた言葉で,品のいい表現ではなかった。武士は「〜でございます」と言い,女房は「〜でござんす」と言った。これが明治以降に,「です」に統一されたのである。
「〜でございます」の「ます」は軽い丁寧語で,「〜であります」は山口県の方言で長州藩閥が自国の言葉を軍隊用語に使用したからだと言われている。

江戸の町人の中・上級の家では娘を行儀見習いのために身分の高い武家の屋敷に奉公に出したが,このときに身につけた武家言葉が徐々に庶民に広まったのである。しかし,上級武士の言葉とちがって下級武士の言葉は「六方言葉」と言われる粗野な関東方言を取り入れた乱暴な言葉遣いであった。

言葉の頭に促音や撥音を入れて詰まらせる言葉が基本で,ひっぱる・ひっつく・ひったくる・うっちゃる,などがある。言葉の最後に「こい」をつけるものとして,ぬるっこい・ひやっこい,など。「いやだ」を「やだ」のように音が脱落するもの。独特の形容詞では,でかい・だだびろい,などがあり,副詞では,なんのかんの・ちょいと・ちっとも・やたらに,などがある。これらは現代語にもなっていて,普通に使われている。

江戸の武士語が全国に広まった理由の一つは参勤交代で,武士が国元と江戸を行き来したため,言葉も各地に広まったのである。だが,それでも地方訛りは江戸では通じず,「江戸言葉」の手引き書が作られもした。


武士の名前

武士の名前は成長するにつれて変わっていく。武士の名は大きく分けて「名字」「名乗り」「諱」の三つがある。

「遠山の金さん」のフルネームは,遠山左衛門尉景元である。最初の「遠山」が名字である。「左衛門尉」は,本来は官位で,幕府が朝廷に奏請して,旗本は将軍に御目見得すると六位の官位を,役を持つと五位の官位を叙任された。五位以下は幕府高家が年頭に上洛したおり,叙任の位記と宣旨をまとめて持ち帰り交付した。左衛門尉は,本来宮城を守護する左衛門府の三等官に当たるが,江戸時代は名目化しており実態はない。

景元が「諱」である。「諱」は武士にとっての実名で,変えることのできない最後の名ということから「忌み名=諱」という。他人の諱は通常は口にしてはならない。なぜなら,諱はその人の肉体の一部であって,諱での呼びかけはたいへんに無礼なことであった。

武士は普段は「通り名」で呼ばれている。官名が通り名になった。平右衛門とか源兵衛などの通り名は一家の主人が代々受け継ぐ場合もあった。これは右衛門や左衛門に,兵衛や助・介・丞・大夫などを付けたもので,奈良や平安時代の武官名であった。武士は,源氏・平氏・藤原氏・橘氏の出身が多く武士の四大姓であった。そして,源氏の出身なら源兵衛・源右衛門,平氏なら平右衛門・平兵衛,藤原氏なら藤兵衛などのように,通り名に付けて出自を表すことが多かった。

熊谷次郎とか三浦三郎などのように,武士が自分の領地の名前を名乗るようになったことから,領地を「名(みよう)」といったので「名字」となったといわれている。

大奥では,お城に奉公したときに「御名下され」で名をもらい,本名をそのまま使うことはできなくなる。御殿は名前によって役職がわかるようになっているため,役職が変わると名も変わった。側室に上がって「中掾vになると,大奥特有の「おの字免許」で,名の上に「お」の字が許された。さらに将軍の子どもを産むと「方の字免許」で,名の下に「方」の字が許されたのである。町方の自由さとは異なっていたことがわかる。


呼び名

武士は自分のことを「某(それがし)」「身共(みども)」「手前」「拙者」などと一人称代名詞で表したが,将軍は「身共」とは言うが「拙者」とは絶対に言わなかった。「身共」は同輩やそれ以下の者に対して自分を表す武士語であり,「拙者」は自分を謙遜して使う言葉であった。「余」は「われ」の意味で,通常は殿様など身分の高い武士が,家来などに自分のことを指すときに使った。本来の意味は「余り者」で,殿様が「家臣の枠の外の者」として区別するために使った。

相手の呼び方は,身分の高い者が目下の家来などに対して呼びかける「そち」は「そちらの」を略した呼び名であった。「そなた」も同様の呼びかけに使った武士語である。「貴様」は,身分や地位,価値が高いものを表す「貴」に,「様もよき人」にように品格や人格を表す「様」が付き,「あなたさま」という意味となった。主に,武士の書簡などで,目上の人に対して用いられたが,やがて敬意の意味が落ちて,目下か同輩の者に用いられた,さらに相手を罵る言葉になっていった。「様」は「寂しげな様」というように,姿や形を表すときに用いられた。「貴殿」は,本来は相手を敬って,その居館を呼ぶ語であったが,やがて人に対して用いられるようになった。同輩に親愛の気持ちを表す語としても用いられた。「貴公」は,同輩の者に用いられた。「そこもと」は,武士が使った二人称で,やや目下の者に使われた。

「下郎」は宮中で低い官位の「下臈」から転じた言葉で,下賤の者という意味で使われるようになり,やがて「下郎」の字が当てられるようになった。身分の低い男を罵って使う言葉である。

大名や旗本は「殿様」と呼ばれ,御目見得以下の御家人は「旦那様」と呼ばれた。

武士の妻たちも夫の身分によって呼び方が変わった。将軍の正室は天下の台所を支配するという意味から「御台所(みだいどころ)」といい,略して「御台様」と呼ばれた。

御三家や御三卿の正室は,簾の中の貴婦人という意味で「御簾中(ごれんちゅう)」と呼ばれ,大名や高家,旗本の妻は「奥方様」とか「奥様」と呼ばれた。御家人の妻は「御新造様」と呼ばれた。

posted by 藤田孝志 at 01:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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