2010年09月12日

武士の窮乏

知行とは「領地から年貢を徴収する権利」であり,石高で示される。1石は米150sほどにある。江戸時代では米1石が金一両だった。現在の銘柄米10s6000円で換算すれば,約9万円であるが,江戸時代は米の値段が他の物価に比べて高かったので,必ずしも実態を判明したものではない。日本銀行貨幣博物館では,職人の手間賃などから考えて,1両を30〜40万円と試算して,実態に近いものとしている。金1両は,江戸中期までは銭4貫文,後期になると6貫文くらいになり,1貫文は1000文だから,換算すれば,銭1文は66円から100円ほどであった。

三田村鳶魚の「文政年間漫録」(『未刊随筆百種』所収)に,三百石取りの武士の年間家計を推測している。それによると,三百石の武士は,寛永の軍役規定で,侍二人,具足持ち一人,槍持ち一人,挟箱持ち一人,馬取り二人,草履取り一人,小荷駄(荷物を運ばせる馬,あるいはその馬をひく人足)二人の計十人の家来が必要であった。侍二人は武士身分で給金が一人四両,具足持ちなどの中間は武家奉公人で給金が二十両かかった。馬の秣代が年間九両かかり,その他にも家来の飯代や武具・家具などの経費を合計すると,生活は厳しかった。


藩士に領地(知行地)を与える給与方式を「地方知行」といい,いったん藩に納入された米を支給する給与方式を「俸禄知行」といった。17世紀半頃から,藩財政や武士の家財政の窮乏化によって,藩士の知行が地方知行制から俸禄知行制へと改革されていった。

下級武士は,知行ではなく,米やお金で給料をもらう身分であった。これらの武士の給料は「五十俵三人扶持」と表示された。米五十俵を「切米」といい,三人扶持を「扶持米」といった。これは米俵五十俵分の米と,奉公人の飯米(食糧)三人分を支給されることを意味する。「切米」は一部を米でもらって飯米とし,一部は換金して貨幣で受け取った。

なぜ武士は窮乏化していったのか。『大江戸「懐」事情』(小林弘忠)を参考にまとめてみる。

生産労働者ではない武士は,扶持米のほかに現金収入はなく,俸給の範囲内で生計を立てなければならず,それも年俸の米を売って暮らすしかなかった。

武士の俸禄は,家格に応じて決められている「家禄」であり,俸禄が上がるのは昇格しての加増か,あるいは出世して役職に就いてもらえる役手当しかなかった。この給与体系が江戸時代270年間を通じて変わらなかったのである。身分は世襲だから,よほどのことがないかぎり禄高は増加しない。

武士が幕府や藩から支給される知行(俸禄)の形態は,次の5つに大別できる。

地方知行(所領を与えられ,その村からの年貢を受ける)
蔵米知行(幕府の御蔵から1俵3.5斗の米俵を年3回に分けて受ける)
両者併用の知行
扶持米知行(1日5合の割で日々の扶持米を月割でもらう)
蔵米と扶持米との併用の知行

幕府は,1日に1人が使用(消費)する米の量を5合(0.9リットル)と決めていたので,1人の年間米消費量は,5合×350日=1石7斗5升となる。1俵は通常4斗であるが,幕府は3斗5升で算出したので,1人分を俵換算すると,5俵となる。ですから,50俵十人扶持では,50俵+(5俵×10人)=100俵となる。町奉行の同心クラスの御家人はだいたいが30俵2人扶持であった。俵計算では年40俵,つまり現金14両が生計費である。食べる米を差し引くとほとんど残らないから内職を手がけるしかなかった。

【知行旗本(500石)の場合】

収入(禄高) 500石(500両:7500万円)
実収入 500石×0.4(四公六民)=200石=2000俵
※ 家族3人+家臣ら6人の年間米消費量 5俵×9=45俵
現金換算 195両(約2932万円)

支出

家族・家臣らの生活費   70両
家臣の給与・衣服費    30両
諸雑費・教育費        65両
儀礼費             20両
屋敷の修繕費         15両
計         200両(3000万円)

【蔵米知行(100俵)旗本の場合】

収入(年収) 100俵×3石5斗=350斗=35石(525万円)
※ 家族3人+家来3人の年間米消費量 1石7斗5升×6=10石5斗
現金換算  24.5両(万円)

支出 

家臣らの年俸・衣服費  9両(135万円)
儀礼費          10両(150万円)
生活費           5両(75万円)
1石1両,1両15万円として計算

この表からわかるのは,儀礼費の多さである。江戸時代は,礼儀を重んじることを奨励したため年中,付け届けなどを余儀なくされ,これに伴う出費が膨大であった。正月の上役へのあいさつ,同僚の出産,親の死亡,子どもの元服と,年中金品を届けなくてはならなかった。「常是包」という金を包む熨斗袋が常備され,就職したり昇格したりしたときは,上役らを招いて開く馬代(車代)付きの「御昵懇の宴」も儀式化されていた。

次に,家臣の給与と衣服代である。武家は所定の兵員を常時抱えておくのが忠義の証であった。三百石取りで7人は必要とされていた。用人・門衛・若党・下男・下女など家臣の生活費,衣服費,給与が家計を圧迫していた。家臣十五人の一千石の旗本では,人件費は30%を占めている。

何より米で受け取った俸禄を換金して生活しなければならない武士にとって,米相場による米価が即生活に響いた。江戸中期からは「米価安の諸色高」となり,米の値段が安いのに諸色(諸物価)が高くなった。米が安いと売却しても禄高より実入りが少なくなり,さらに物価高が加わって武士の生活を困窮化させたのである。
しかし反面,町人や大名屋敷からの付け届けがある町奉行配下の同心や,役職によっては将軍からの下賜品や大名からの報奨金など頂戴物があり,これらが生活費を補っていた。

posted by 藤田孝志 at 01:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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