2010年09月12日

リサイクル社会

江戸時代が高度なリサイクル社会であったことは周知の事実である。消費された物品の9割が再利用されたといわれている。

傘は油紙で作られたが,破れたら新しい紙に張り替えて使用した。破れた油紙は,鮮魚や漬物などの包み紙として使用した。番傘の値段が二百文から三百文程度,高級品の蛇の目傘はその倍以上したため,庶民は古傘を使った。

「古傘買い」が買い集めたものを傘屋は再生して売り出したが,骨を削り直して新しい紙を貼るのは浪人の内職仕事であった。古傘の骨を利用して「凧」を作る者もいた。凧一枚は十四文ほどで売れた。

不用になったものを買い取る商売も盛んで,服は古着屋が,道具は小道具屋が引き取った。

江戸時代,織物や染物は手間がかかり,非常に高価なものだったので,庶民は古着を身につけた。この古着はいくども洗い張りをし,仕立て直しをして大切に着た。冬は袷を着るが,袷がなければ単衣を二枚合わせ綿を入れて着た。夏には綿を抜き単衣にして着た。自分が着られなくなると,小さく作り直して子どもに着せた。その後は,雑巾にしたり下駄の鼻緒にしたりした。江戸中期には,古着商売に関わる人間は三千人を超えていた。

古着買いのなかには「湯灌場買い」を専門にする者もいた。湯灌とは,死んだ人を棺に納める前に身体を拭き清めることで,寺の近くに湯灌場が設けられていた。自宅で湯灌することは禁じられていたため,湯灌の世話にならざるをえない。湯灌が終わったら死に装束を着せ,納棺する。湯灌場買いは,湯灌場に出かけ,不用になった死者の着物を買って歩いた。この着物は一度ほどいて洗い張りされ,古着屋の店先に並べられた。

道端の紙屑も紙屑拾いが拾い集めて「浅草紙」に再生した。江戸時代の和紙は10ミリ以上の長い植物繊維でつくられ,添加物もないので,容易に漉き返すことができたので,紙のリサイクルも行うことができた。紙屑拾いは,集めた紙屑を「立場(たてば)」と称する問屋に持ち込み,買い取ってもらった。これを買い取った浅草山谷の職人や千住あたりの農村が副業として紙漉きを行った。紙屑を煮て溶かし,冷やしてから漉いた。冷えるまですることがないので,浅草山谷の職人が吉原を見物してきた。これが「冷やかす」の語源と言われている。この浅草紙は百枚百文ほどで売られていた。

中江克己氏の『お江戸の意外な商売事情』より,いくつか紹介する。

【とっかえべえ】

壊れた鍋,折れた火箸,錆びて仕えなくなった包丁や鋏などの古鉄と飴を取り替える行商人である。古鉄買いは古着屋や質屋などと同じく,幕府が盗品の売買防止のために定めた業種だが,「とかえべえ」は正規の古鉄買い組合に属さず,下請けのようなものだった。

【蝋燭の流れ買い】

蝋燭は奈良時代に伝わったが,室町後期には,櫨や漆の実を原料とした木蝋が生産されるようになった。江戸時代になると,櫨や漆を作る農家が増えて蝋燭も量産されるようになったが,たいへんな手間と過酷な肉体労働,熟練した技術が必要であったため,高価であった。
大工の一日の手間賃が五百文という時代に,「百目蝋燭」は1本二百文だった。
蝋燭の溶けて流れた「蝋涙」を秤で目方を量って買い取った商売である。買い取った「蝋涙」は再び溶かして新しい蝋燭に再生した。
また,溶かした蝋を丸や四角の型に入れて固めて売った。これは引戸の滑りをよくするために桟に塗ったり,木製品や廊下の艶出しなどに使った。あるいは,液状になった蝋を紙に塗って蝋紙にし,合羽や傘の防水に使ったりした。

【おちゃない】

落髪を集めて,かもじ(添え髪)を作る業者もいた。この落髪を買い歩く業者を「おちゃない」(「落ち髪はないか」)という。主に女たちの仕事で,買い集めた落髪を風呂敷包みを頭にのせて歩いた。

【貸褌】

江戸時代,男のおしゃれは,尻っぱしょりの「見せ褌」であった。褌は必需品であったが,布は高級品なので,新品を誂えるというのは庶民にはむずかしいことであった。
賭博場で元手に困ったときにお金を借りる鉄火質では,晒木綿の褌を質草にすると,銭一貫文(千文)借りられるほどの値打であった。
「貸褌」は,まず最初に二百四十八文を払って,新しい六尺褌を購入する。褌が汚れたときに店に行き,六十文出すと,選択したての新しい褌を出してくれるというシステムである。では,古くなった褌はどうするかというと,中形に染めて(中ぐらいの大きさの模様を型染めしたもの)仕立物にして田舎に送った。高価な物が流通しない田舎では,古着や中古の端布が商売になった。

江戸時代,トイレは「雪隠」といったが,武家屋敷には小便所と大便所が組になって設けられていた。町屋でも同じであった。裏長屋は「総後架」と呼ばる共同のトイレで,踏板を渡しただけの簡単な構造で扉は半分しかなかった。大便所と小便所が分かれて設けられていた理由は,大便を畑の肥料として,近郊の百姓に売ったからである。

江戸城の汲み取りの権利を持っていたのは,葛飾郡葛西領にある約六十ヵ村であった。この村に住む葛西権四郎を名乗る家が権利を持っていた。葛西権四郎は鎌倉時代以来の名門であったが,家康の江戸入国により葛西に土着して農民となり,汲み取りの権利を与えられた。

毎日,葛西権四郎は船二艘で,和田倉門外の「辰口」まで漕ぎ寄せて,城の塵芥を積んで葛西に送った。大奥の長局の下掃除も権利として与えられて汲み取った。また,江戸城だけでなく江戸市中の多くの汲み取りを担当した。
葛西船は,朝は野菜を積んで青物市場に降ろし,帰りに肥樽百六十個ほどを満載にして葛西に帰った。江戸後期には,専門の肥船業者や汲み取り業者,肥の売買をする会所もつくられた。
肥会所では,糞の相場も立った。
特上は「きんばん」と呼ばれ,幕府や大名者敷の勤番者の糞で,最高品とされた。次が上等の「辻肥」で,街頭にある辻便所の糞であった。中等が「町肥」と呼ばれる一般町屋の糞,それから下等の「たれこみ」(小便が多い)や「お屋敷」(牢獄)であった。
値段は,一樽が二十五文,一艘が約一両であった。農村では「船一艘は一町株」といわれ,肥船を一艘持っていると,田畑一町分の儲けがあったといわれた。

posted by 藤田孝志 at 00:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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