2010年08月15日

時代考証

ちょっと前までの日本人は,江戸時代をあたかも暗黒の時代であるかのごとく思いこんでいました。
農民は重税に苦しめられ,士農工商という厳然たる身分制度にしばられ,さらに鎖国によって世界の進歩から取り残されてしまった。そんなイメージが一般的でした。
でも,それは完全に誤った認識なのです。

実は江戸時代の農民の税は現代よりも軽く,身分制度もけっこういいかげんなものだったのです。実際,庶民でもお金を出せば武士になれましたから。また,貿易額は膨大で,海外交流もかなり盛んに行われていました。
つまり,けっして息苦しい世の中ではなかったのです。だからこそ,260年という気の遠くなるような長期間,江戸幕府は政権をにぎりつづけることができたわけです。

では,どうして,マイナスイメージがつくられてしまったのでしょう。
おそらくそれは,幕府を倒した明治政府の戦略でしょう。前政権をおとしめ,暴政だったと喧伝することで,新しい政権の正当性を国民に納得させようとしたのではないでしょうか。さらにそれを,明治時代の御用学者たちが,史実であるかのごとく語ったため,江戸時代=暗黒時代といった固定観念が定着してしまったのだと思われます。

これは,『世界一おもしろい江戸の授業』(河合敦)の「はじめに」の一文である。

「部落史の見直し」によって教科書における部落史関連の記述が大きく改訂されたが,実は歴史教科書そのものも見直されてきている。未だ十分に反映されてはいないが,江戸時代ブームを背景に,今まで定説のように教科書に記述されてきた事柄がまちがっていたり,別の解釈があったりと,歴史の新事実や新しい歴史観によって歴史そのものが見直されている。特に,今までの教科書による歴史認識が政治史中心で,政治や出来事の解説であったのに対して,民衆史からの生活や文化を中心とした歴史が語られるようになり,従来の歴史像が大きく転換されてきたように思う。

この1年ほど,部落史の背景を知る目的で買い集めた歴史関係,特に江戸時代についての雑学的な書物から意外なほどに学ぶことが多かった。これら江戸時代に関する雑学的な書物などを<寄せ集めて>まとめてみようと思う。寄せ集めであれ何であれ,それらを集成したものが歴史である以上,総体的に歴史をとらえるための大切な基礎知識であると思う。

山本博文氏や中江克己氏の著作,歴史の謎を探る会編『江戸のしきたり』『江戸の商い』など,また石川英輔氏の『大江戸庶民事情』等を材料(参考)に,江戸時代の「寄せ鍋」を料理してみよう。


江戸時代中期,江戸の人口は100万人を超えていたと推定される。半分は武士であったが,残りの半分は商人や職人といった町人であった。しかし,居住地は,武家地が69%を占め,ほかに寺社地が15%を占めていたため,町地は16%しかなかった。

武家地には,一万石の大名でも2500坪はある大名屋敷から旗本,わずか100石でも300坪はあった御家人の屋敷まで広大な屋敷があった。町人のなかにも表通りに面した表店と呼ぶ広い屋敷に住む者もいたが,大半の町人は裏通りにつくられた裏店(裏長屋)と称する粗末な共同集合住宅に住んでいた。

長屋は,長方形の棟に6部屋が基本になって,一部屋の広さは台所と土間を含めて六畳一間,もちろん風呂とトイレは付いていなかった。六畳のうちの一畳半は土間になっていて,ここに竈と台所がおかれ,板敷きの四畳半の隅には蒲団などの荷物がまとめてあった。実際の居住空間は三畳ほどだと思われる。隣とは薄い板壁で,柱も細く,屋根は柿板(こけらいた)葺きであった。

たいていの長屋は,2棟セットで向かい合って建てられ,1メートルの路地の真ん中に下水が流れ,邑久に共同便所や井戸があった。

長屋の家賃は,一般的には1000文(1文=50円とすれば5万円)程度だった。なかには棟割長屋という通常の六畳一間をさらに半分に仕切って貸す場合もあった。家賃は300文くらいであった。

江戸の町数は,正徳三(1713)年頃に933町あったという。これだけの広範囲を江戸町奉行配下の与力(各25人)・同心(各120人)で治安を維持するのはたいへんなことであった。そこで,幕府がとった政策が「町人による自治組織」である。町人の中より選んだ「町年寄」三人を頂点にして,その下に「町名主」・「家主」というようにピラミッド型の管理システムによる自治組織を整えたのである。

町年寄は,徳川家が江戸を領国としたころより縁の深い「奈良屋・樽屋・喜多村」の三つの商家が世襲制でつとめた。町年寄は,町人ながら苗字帯刀が許され,正月には登城・将軍拝謁ができるほど家格が高く,町政全体を統括する立場であった。

「奈良屋」は三町年寄の筆頭で,出身地である奈良を屋号にした。本姓は小笠原氏で,初代の小笠原小太郎は,天正十年(1582)の本能寺の変の際に,家康が「伊賀越え」でにげたときの功労者である。

「樽屋」の先祖は三河以来の旗本である。徳川家と同郷の三河城主水野氏の出身で,水野弥吉と称した。三方ヶ原の合戦で戦功があり,家康から「樽三四郎」の名を賜り,家康の江戸入国で町人支配役となった。

「喜多村家」の初代は家康とともに江戸に入国して町人支配を命じられた文五郎である。「御馬御飼料御用」と「関八州連雀商札座」「長崎意図割符年寄」を兼ねていた。つまり,幕府の馬草と行商人,輸入糸の取締を一手に引き受けていた。二代目は,婿の彦右衛門で,加賀の薬種商と廻船業の家の出身であり,家康が加賀藩主前田利家に依頼して登用した。

これら町年寄の仕事は,政令(お触れ)の伝達,町奉行からの調査依頼,市中の土地の地割り,地代や運常勤の徴収と上納,各町の名主の任免,水道などの維持管理,等々がある。つまり,町奉行と町人の間にたって,江戸の行政と治安維持を担当していたのである。

町年寄は正月三日に,無官の大名とともに江戸城に登城して将軍にお目見えした。譜代大名の席である「帝鑑間」の敷居外に詰め,そこから正面に進んで,献上物を前にして将軍に拝謁した。

町名主も多くは世襲で,担当する町の町政に関する実務を担当した。奉行所が出す通達(町触れ)を伝達したり,人別帳の作成・管理,不動産の登記,町人の諍いの調停などをしたりした。人数は約200人くらいで,いくつかの町を兼ねていた。町年寄が大店の主人であるのに対して,町名主は専業で,ほかに仕事を持たなかった。自宅を開放して町政を司り,町費から手当が支払われた。また,全員が同格ではなく,草創(くさわけ:元土豪)・古町(こちょう:江戸開府以来の者)・平(ひら)・門前(もんぜん)という四ランクに分けられていた。

土地売り渡し証文を「沽券」という。今日の「沽券にかかわる」という言葉は,「沽券」を持った町人身分であることに由来する。

町年寄・町名主の他に,町内に家屋敷を持つ「家持」,他の町内に居住し町内に屋敷地を持つ「地主」がいた。これらの人々が正規の町人であり,幕府への奉公である国役や,人足役である公役を屋敷地の間口の広さに応じて分担し,町を運営する町入用費を負担した。貸家や裏店住まいの商人や職人は,正式な町人ではないので税負担はなかった。

家主は,貸家の管理者である大家(家守)がつとめた。長屋の持ち主から建物や住人の管理を任された雇い人として,店子から家賃を徴収したり賃貸借契約をしたり,建物の維持管理や修繕をおこなった。また,町奉行配下の町役人として,人別帳にかかわる店子の状態を把握し,通行手形発行など願い出の取り次ぎも行った。店子から犯罪者が出ると管理責任を問われるため,店子の面倒と監視は義務でもあった。

大家の収入は長屋の持ち主からもらう給料であるが,他に「共同トイレ」の屎尿を農家に売って得る代金も収入であった。十軒長屋には二つの共同トイレがあり,「総後架(上方は雪隠)」といったが,一年の屎尿が5両になったそうである。

大家たちによって組織された自治組織が「五人組」で,本来は地主たちが組織するものだが,大家たちに代行させていた。五人組は,ふだんは自身番屋という町内に設けられた番所に当番制(月番)で詰め,町名主の代役として町内の政務を行った。これを「月行事」という。大家までが「町役人」とされた。

具体的な用務は,町名主からのお触れを町内に伝達,訴訟や届け出の確認,検使や見分の立ち会い,罪人や囚人の預かり,火消し人足の差配,町内の整備,火の番,夜回りなどである。

この大家の人数は二万百十七人と決まっていた。欠員が出たときは「大家株」を買って仲間入りすることもできた。この株の値段は,差配する長屋の規模によって,二十両から二百両と幅があった。百両の株の規模の大家は,地主から二十両の給金がでた。さらに長屋の住民が引っ越してくると,三ヶ月分の家賃を礼金として受け取った。


江戸時代に藩という呼称はなかった。国や城下町の名,藩主の姓などで領国を呼んでいた。藩という言葉は,古代中国の諸侯たちが自分の領国を「藩屏」と称したのが始まりで,江戸時代半ばより一部の学者が使うようになったが一般には広まらなかった。

藩を使うようになったのは,明治政府が大名の領地とその支配機構を「藩」と公称したのが始まりである。

posted by 藤田孝志 at 16:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史認識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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