2010年09月11日

官職と位階

水戸光圀のことを,時代劇などで「黄門様」と呼ぶことが多い。「黄門」とは,日本の官名である「中納言」の唐名(からな)である。唐名とは,令制の官名を唐制で呼んだ名で,太政大臣が「相国(しょうこく)」,左大臣が「左府(さふ)」,右大臣が「右府(うふ)」,内大臣が「内府(だいふ)」である。「丞相(じょうしょう)」「相府(しょうふ)」も大臣の唐名である。大納言はの唐名は「亜相」で,「亜」は準ずるの意味で,「丞相」すなわち大臣に亜(つ)ぐ高官の意味がある。中納言の下は参議で,「宰相」という。この参議以上の官にある者,あるいは位階が三位以上の者が「公卿」である。

少納言は公卿の下にあって侍従を兼ね,天皇の側近に奉仕する要職であったが,身分は低く,「蔵人」ができてからは閑職であった。唐名は「門下給事中」である。

正一位とか従一位は「位階」であって,官職に対応している。中納言は必ず三位以上,大臣は二位,太政大臣は一位である。浅野内匠頭は「朝散大夫」という従五位下の唐名で,「内匠頭という官職を持つ従五位下の位階」の人である。因みに,内匠頭とは,内匠寮という調度品の製作にあたる部署の長官を表す。中央の役所では,寮の長官が「頭」,司(采女司:下級女官の管理をする部署の長官)や監(主膳監:東宮の食事を司った役所の長官など)の長官は「正」,「大夫」は職(中宮職・京職・大膳職・修理職など)の長官,「督」は兵衛府の長官というように部署によってちがっていた。地方の役所の長官は「守」であった。四等官は表記にかかわらず,長官が「かみ」,次官が「すけ」,判官が「じょう」,主典が「さかん」と読んだ。「かみ」は最上位を表し,「すけ」は補佐の意,「じょう」は唐の一部官庁で三等官の呼称とされていた「丞」の借音,「さかん」は補佐官を意味する「左官」にそれぞれ由来する。

このように,それぞれの官職には,本来の役目があったが,江戸時代の大名の官職には実体がなく,単に「名」であった。

「位階」とは官吏の序列である。律令制下の位階制においては,親王に対する位階は品位として別途四階(四品:しほん)が定められた。位階の順位は,正一位・従一位・正二位・従二位というように……従八位までと,その下に大初位・少初位となっており,正四位からはさらに上・下と分かれていた。

江戸時代の大名は,おおむね従五位下に任じられ,それ以上は,家格や在職年数によって,四品(無官の従四位下),侍従(従四位下),近衛府の次官である少将,中将と昇進していった。近衛府の長官は従三位相当である。


日本律令制では,官人はまず位階によって序列化され,そして位階に応じた官職が与えられていた。位階を主として官職を従とする官位システムを官位相当制という。具体的には,官位令に基づいて位階ごとに就任可能な官職が厳密に定められ,ある官職で実績・評価を重ねたとしても,唐のように官職の昇進を受けるのではなく,まず位階の昇進を受けて,その後に昇進後の位階に相当する官職の就任資格を得るのが原則であった。ただし,様々な事情により位階と官職の相当関係が成立していない事例も発生した。その場合,位階相当よりも高い官職にある場合には「行」,反対に位階相当より低い官職にある場合には「守」と呼称した。

徳川家康が江戸幕府を開くと,官位を武士の統制の手段として利用しつつも,その制度改革に乗り出した。まず,禁中並公家諸法度により武家官位を員外官(いんがいのかん)とすることによって,公家官位と切り離した。これによって武士の官位保有が公家の昇進の妨げになる事態を防止した。少将,中将,中納言,大納言などの官職を権官として任じたことも,そのあらわれである。また,武家の官位の任命者は事実上将軍とし,大名家や旗本が朝廷から直接昇進推挙を受けた場合でも,将軍の許可を受けねばならなかった。

大名に与える官位は,位階は従五位下(諸大夫・五位),一般大名は従四位下(四品)とし,官職は,侍従・権少将・権中将・参議(宰相)・権中納言(黄門)・権大納言(亜相)とした。老中は「従四位下侍従」,御三家は尾張と紀伊が「大納言」,水戸が「中納言」であった。

これらの武家官位について,伺候席席次を官位の先任順としたり,一部の伺候席を四品以上の席とするなどして,格差をつける。その上で,大名家により初官や昇進の早さを微妙に変えるなどして家格の差を生ぜしめた。

なお,武家官位では,「〜守」「〜頭」等の官名の名乗りは官位とはされず,叙爵された者が称しているものとされた。ただし,この官名の名乗りにおいても幕府の許可が必要であり,一部の官名に特例を設けるなどして大名統制にも利用している。つまり,武家官位は,幕府が内示を与えた時点で,官職と位階が認められ,官職は自分で選べたのである。ただし,大廊下・大広間詰め大名以外の老中と同一名乗りの禁止や国持大名以外の領国名使用など,様々な制限(規制)があった。

松平姓の国持大名による領国名優先使用では,加賀前田家(幕府より松平姓を賜る)の「加賀守」,越前松平家の「越前守」などがある。大藩の国持大名による領国名優先使用では,仙台伊達家の「陸奥守」,薩摩島津家の「薩摩守」,福岡黒田家の「筑前守」などがある。

この武家官位は,幕府にとって安上がりな権威付けであるとともに,朝廷にとっても貴重な収入源であった。官職を決めたら大名家が京都に使いを出して正式な書類をもらうことになっていたが,次第に,その役目を高家(幕府の儀式・典礼,朝廷への使節,伊勢神宮・日光東照宮への代参,勅使の接待,朝廷との間の諸礼をつかさどった家で,室町時代以来の名家である大沢・武田・畠山・大友・吉良など26家が世襲した)が代行するようになった。

官位をもらうときは,家臣を公卿(三位以上の公家)のところに遣わして,口宣案や宣旨などの書類をつくってもらうが,大名家と公卿の間に立つ業者への手数料も含めて,費用は諸大夫で40両,中将だと200両くらいであった。ただし,老中への御礼はもっと必要であった。


今回は,フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』と,山本博文氏の『江戸学講座』『江戸の金・女・出世』を参考・引用させてもらった。

最後に,山本氏の『江戸の金・女・出世』より「日本人の名前は官位に由来?」より抜粋引用しておく。

朝廷の官位制度においては,五位までが殿上人として優遇された。地下の者(平民)にとって,四位以上の位階はいかに金品を積んでも無理だが,五位ならば与えられた。
五位に任じられた惣村の乙名(長老)は,名前に五位の唐名である「大夫」をつけた。たとえば,森鴎外の小説で有名な「山椒大夫」も五位の位を貰った在地の有力者だったと考えられる。
五位に任じられるのは惣村の有力者に限られるが,他の有力な者も名前に官職を思わせる呼称をつけるようになった。
たとえば,次郎だった者が,惣村の中で地位を上げると,末尾に「兵衛」をつけて次郎兵衛と称したり,勘助だった者が「右衛門」をつけて勘右衛門と称したりしたのである。

江戸時代の大商人である三井家では,本家が八郎右衛門を称するから,番頭や手代クラスだと,孫次郎とか忠三郎とかいう名前で,兵衛や右衛門はつけない。下男にいたっては,本名とは別に権助とか五助といった下男としての名前を持つことになる。
名前に官名に由来するものをつけるのは…現在も似たような事例はある。たとえば隼人という名前の人がいるが,これももとは「隼人正」に由来する。…「大介」は,もとは「おほすけ」と読んで,知行国守である「守」のことである。…「大輔」はもとは各省の次官だ…

官位・官職などと武家の名の関係を考えれば,朝廷の権威が武家社会にも影響を及ぼしていることがわかる。因みに,大名は互いを,内匠頭とか上野介とか官職名で呼び合っていた。将軍の前では,御三家・五摂家以外は,老中でも若年寄でも,その人がいる前では「伊勢」とか「美濃」とか「内膳」というように互いを呼び捨てにしていた。また,相手のことを「自分」といい,自分のことはなるべく「自分の名」を言い,「わたくし」とは言わなかった。なぜなら,将軍が「わたくし」と言うからである。これも儀礼である。


山本博文氏の『日本人の心 武士道入門』(中経文庫)を参考に,官職と位階について補足しておく。

官途受領

武士の名前に「兵衛」「右衛門」「左衛門」などの名前がある。これらは「官途受領」と呼ばれ,朝廷の官位をもとにした名前であった。右衛門・左衛門とは,御所を警護する「衛門府」のことで,これが左右の二部署あった。正式の官職であれば,右衛門府では,右衛門督(かみ:長官)・右衛門佐(すけ:次官)・右衛門尉(じょう:判官)となる。

戦国大名は,これらの官位に類似する名前を「官途受領」と称して家臣に与えていたのである。このような名前を与えられることは「一人前の武士」であると認められることでもあった。長州藩の留守居役に福間彦右衛門尉という人物がいるが,「彦右衛門大尉」という官職はなく,長州藩が与えた名前であった。「尉」は次第に省略されていった。「兵衛」も兵衛府のことで,勘兵衛(かんびょうえ)が本来の読み方で,これも官途受領であった。


受領名

陸奥守(伊達家)・大隅守(島津家)・長門守(毛利家)などの名前は「受領名」である。

受領とは,国司四等官のうち,現地に赴任して行政責任を負う筆頭者を平安時代以後に呼んだ呼称である。

室町時代以降,守護大名の間で武功のある家臣や被官に対して,朝廷の正式な位階や除目の伴わない非公式な官名を授けるようになり,これを受領名といった。多くの場合,大名の傘下にあって城や領地,兵力を有する国人や武将がその対象となり,主君から受領名を授かることは,武家の格式と功名をあらわす栄誉として重んじられるようになった。

江戸時代になると,朝廷の官位は幕府が規制することになり,官位を名前に付けることを遠慮するようになった

江戸時代の大名の名前は,朝廷によって授けられた官位であるが,実質的な意味はない。たとえば,吉良上野介の「上野介」,浅野内匠頭の「内匠頭」も官位である。彼らはそれぞれ「義央(よしなか)」「長矩(ながのり)」という実名をもっているが,実名で呼ぶことは失礼であったので「諱(いみな:言うことをはばかるという意味)」とも言った。

上野介は上野国(群馬県)の次官であり,内匠頭は内匠寮の長官という官位であった。

国名の官職で「守」がつくのは,その国の国司であることを示しているが,実体はない。律令制の国数は68国しかなく,大名の数は250人ほどもいるため,国名だけでは足りず,「内匠頭」「右京大夫」など中央政府の役所の官職をもらう者も多くいた。

右大臣・内大臣・征夷大将軍(従二位から従一位):徳川宗家の当主
大納言:亜相(正三位):将軍世子・尾張徳川家・紀伊徳川家
中納言:黄門(従三位):水戸徳川家
参議:宰相(正四位下から正四位上):前田家(加賀藩)
中将(従四位上から正四位上):伊達家(仙台藩)・島津家(薩摩藩)
少将(従四位下から従四位上):中位の国持大名
侍従(従四位下):下位の国持大名・老中・京都所司代・準国持大名
四品(従四位下):準国持大名・20年位上在任の大名
諸大夫(従五位下):一般の大名

旗本も,遠国奉行位上の役職に任命されると従五位下に除せられ,官職名を名乗ることを許された。大岡越前守や遠山左衛門尉の「越前守」や「左衛門尉」が官職である。

大名も旗本も,官職で名乗れること自体が大きな名誉であったが,官職名は朝廷や幕府が決めるものではなく,自分が決めてよいものであった。幕府が官位を与えることを内示すると,大名は老中などと相談して好きな官職を付けた。

遠山の金さん(遠山金四郎景元)は,小納戸から小納戸頭取,小姓頭取,小普請奉行を経て町奉行になります。小普請奉行になると,従五位下の位階をもらい,何かしらの官職を与えられます。そこで,金さんは,左衛門尉という官職を選んだのです。…なぜ尉(判官)かといえば,衛門府の格式は高く,判官が従五位下相当だったからです。…

このように,江戸時代に武士は,通称と諱とのい二つの名前を持っていたのです。こうした風習は,明治時代になって,名前を二つ持つことが禁じられてからすたれました。

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江戸の女性

『世界一おもしろい江戸の授業』(河合敦)を参考にまとめてみる。

江戸中期に成立した『女大学』は,明治時代まで女性道徳の教科書のように学校や家庭で読まれ,儒教の教えに基づく女性の模範的な生き方が細かく記されていた。この『女大学』は,『養生訓』の著者である貝原益軒が書いた『和俗童子訓』を抜粋して編纂したものといわれている。

女子は,幼きときより男女の別を正して,かりそめにもたわむれたることを見聞せしむべからず。古の礼に,男女は席を同じうせず,衣裳も同所におかず,同じところにて浴みせず,…
婦人は別に主君なし。夫を主人と思い,敬い謹みてつかうべし。軽しめ,侮るべからず

男尊女卑の差別観で貫かれているが,これは基本的に武家の婦女子に向けた「武士の妻」の心得を書いたものである。江戸時代,女性は家内を整え守るのが最も重要な仕事であり,夫を陰から支えるのがつとめとされた。家長も男性に限られ,女性は相続人にもなれなかった。嫁のつとめは後継者である男子を産むことであり,不妊女性は軽蔑され,離婚されてしまうこともあった。

しかし,これは「期待される女性像」であっても,実態は必ずしもそうではなかった。武家の家庭や社会では,このような女性軽視の待遇もあったかもしれないが,庶民の世界では女性の社会的役割は大きく,商家のみならず外で働く女性は多かった。農漁村にいたっては,農作業はもちろん機織りなどの副業,漁獲した魚の処理はもちろん海藻を採ったり,アワビ・サザエを獲ったりする仕事に従事したのが女性たちであるから,『慶安の御触書』に書かれているような実態では必ずしもなかった。


男尊女卑の代名詞といわれる「三行半」はしても,旦那が一方的に奥さんを離縁状一枚で追い出してしまうと解釈されてきたが,実際は離婚の際に男性が女性に差し出さなくてはならない再婚許可状であった。

其方事,我ら勝手につき,このたび離縁いたし候,しかる上は向後何方へ縁付候とも,差しかまえこれ無く候,よって件のごとし

女性の中には,将来嫌いになったらすぐに離別できるように,結婚前に夫に三行半を書かせておいた者や,離婚を夫に強く迫り三行半を書かせて,他の男と家を飛び出した者もいた。逆に旦那から妻を離縁しようとする場合には,持参金を全額返済したうえ,妻に落ち度がなければ,慰謝料を払わなければならなかった。さらに,再婚許可状である三行半を渡すのは夫の義務であり,それを行わなければ処罰された。しかし,女性に離婚を請求できる権利はなく,夫が三行半を出さなければ離婚は成立しなかった。そのため,離婚を求めても夫が応じてくれない妻たちは「縁切寺」に逃げ込むしかなかった。

縁切寺で有名なのは鎌倉の「東慶寺」である。この寺は,北条時宗の妻であった覚山尼が創建した寺で,豊臣秀頼の娘であった二十代住職の天秀尼が徳川家康に,寺に駆け込んだ妻を必ず離婚させることができる「御寺法」の永続を願い出て許されて以降,江戸時代を通じて治外法権が与えられた。

東慶寺に駆け込んだ女性は,境内にある役所で寺役人より吟味を受ける。事情を聞いた寺役人は飛脚を使って関係者を集め協議離婚をすすめる。これを「内済離縁」という。ほとんどの場合,この段階で三行半を渡したようである。まだ夫側が応じない場合,出役達書(寺役人が出張裁判に出向く旨を書いた通達)を夫の住む村の名主あてに送る。これでも応じない場合,寺役人は実際に村の名主にもとまで出向き,「寺法書」を渡します。これに承服できない場合,夫は「違背書」を寺社奉行に提出する。すると,夫は奉行所に呼び出され「仮牢入りだぞ」と脅かされ,最終的には詫び状を書かされ,離婚に承諾させられる。これを「寺法離縁」という。この場合,女性は1年間,寺で厳しい生活をすることを義務づけられることになる。

明治4年,女性にも離婚請求権が認められたことで,東慶寺は歴史的な役割を終え,「御寺法」も消滅した。

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江戸幕府の組織(1)

武士身分の三分法

武士の身分階層は,上士・平士・下士の三つの身分に分かれる。幕府も藩も,三つの身分を基本にして組織を作り上げていった。

上士 … 家老や組頭などを務める家柄

家老は,実際に藩政をおこない,藩によって奉行や用人などとも称された。
組頭は,平士を束ねる上級家臣で,領地をもつ場合が多い。

平士 … 知行(領地のことで,石高で示される)を取る武士のうち,上士を除いたもの。

本来は騎馬の格で,組頭に統率されて藩主の馬の廻りにいて護衛にあたるので「馬廻」とも言う。
藩の実務は,平士のうちから選抜された者によって担われる。城下町を支配する町奉行,農村を支配する郡奉行,下士を統率する物頭,江戸留守居役などの役職がある。
平士身分の位置は,知行の額で示される。
百石取りの武士なら「鑓一筋の家」とされ,鑓持ちを従えて合戦に従軍する格である。「鑓」は武士が使うもので,「槍」は足軽が使うものである。
三百石取りの武士ならば,馬に乗り,死角となる鑓脇を家来の「侍」に守らせて合戦に従軍する。
千石取り以上は,騎馬の軍団を指揮する格で,上士である組頭になる。

下士 … 徒士(徒歩で従軍する下級武士)や,物書(下級の書記役)である。

知行は持たず,藩の蔵から給料として米を支給される武士である。その身分は,三十俵五人扶持というように年収で表示される。石でなく俵で表示されるのは,藩の蔵から俵に入った米を支給されるからである。

武士の身分の違いは,家臣の持ち方,服装,態度,言葉,婚姻のあり方など,武士の生活すべてにおいてちがった。

上士は上士同士が原則であるが,上士は平士の上層とは縁組が結ばれることもあったが,平士は下士とは決して縁組することはなかった。下士は下士同士で縁組し,百姓や町人とも縁組を結ぶこともあった。言葉遣いでは,平士は下士に「貴様」といい,下士は平士に「あなた」と呼ばなければならなかった。

足軽は,往来で上士にあったとき,下駄を脱いで路上に平伏しなければならなかった。

この身分序列を幕府組織にあてはめれば,譜代大名と三千石以上の旗本が上士,三千石未満の旗本が平士,御家人が下士に相当する。


幕府の軍事組織

老中 ― 大番頭       ― 組頭     ― 番士

         書院番頭   ― 組頭 ― 番士

若年寄  小姓組番頭  ― 組頭 ― 番士

 新番頭     ― 組頭  ― 番士

    小十人頭 ― 組頭     ― 番士

    徒頭    ― 組頭         ― 徒士

両番とは,将軍の身辺を警護する軍事組織である「書院番」と「小姓組番」を指す。代々,これらの番に配属される家を「両番家筋」と称した。

「大番」は,徳川家の軍事組織の中核で,両番に次ぐ「番」である。江戸城では二の丸や西丸の警備に当たり,二組ずつ交代で,二条城や大阪城の警備に出張した。「大番家筋」の旗本は,知行三百石以上で,騎馬の格である。

寛永二十年(1643)に設置された「新番」と,徒士格の旗本の軍事組織である「小十人組」がある。これらを総称して「五番方」という。

役職に就かず,番に配属されない(番入できない)旗本は「小普請」と呼ばれ「小普請組」に支配された。無役であるかわりに,知行百石につき金一両の小普請請金を上納した。

書院番は八組あり,それぞれに番頭がいる。一組は番士五十人によって構成され,番頭には番士のほか与力十騎と同心二十人が預けられた。番士の中から一人が組頭となった。

小姓組番は,寛永期に六組,のちに西丸に四組の十組ある。

大番は,十二組あり,十二人の大番頭がいるが, 一組の番士五十人の上に四人の大番組頭がいた。大番は,戦いの時には先鋒に派遣されるので,その部隊の長である大番頭は,両番の頭よりも格上であった。組頭や番士は,両番の方が格上とされた。

「両番家筋」の旗本は,家督を継ぐと,書院番か小姓組番に配属され,優秀な者は,徒頭,小十人組頭,使番などを経て目付となり,さらに遠国奉行に昇進していく。


大名・上級旗本の官位

右大臣・内大臣・征夷大将軍(従二位から従一位) 徳川宗家の当主

大納言(亜相)(従二位) 将軍世子,尾張徳川家,紀伊徳川家

中納言(黄門)(従三位) 水戸徳川家

参議(宰相)(正四位下から従三位) 前田家(加賀藩)

中将(従四位上から正四位上) 伊達家(仙台藩),島津家(薩摩藩)

少将(従四位下から従四位上) 中位の国持大名

侍従(従四位下) 下位の国持大名,老中,京都所司代,準国持大名

四品(従四位下) 準国持大名,長年に亘って在任の大名

諸大夫(従五位下)

一般大名,側衆,駿府城代,伏見奉行,留守居,大番頭,書院番頭
小姓組番頭,大目付,町奉行,勘定奉行,長崎奉行など

布衣(六位相当)

小普請組支配,新番頭,御広敷用人,大阪船手頭,目付,使番
書院番組頭,小姓組組頭など

布衣とは,江戸城での儀式に着用する礼服の一つで,朝廷の位階では六位相当の格式である。布衣役には,次のような役職の者が任じられた。

小普請組支配(小普請の旗本のとりまとめ役)
新番頭(新番の責任者)
持弓頭(弓隊の隊長)
持筒頭(鉄砲隊の隊長)
大阪船手頭(大阪の水軍の責任者)
目付(幕臣の監察)
使番(諸大名への使者を務める)
書院番組頭(書院番の司令官である書院番頭の補佐)
小姓組組頭(小姓組の司令官である小姓組番頭の補佐)
駿府勤番組頭(駿府城警備隊の分隊長)
西丸御裏門番頭(江戸城西丸裏門警備の責任者)
徒頭(徒歩で従軍する御徒の隊長)
小十人頭(小十人組の隊長)
船手頭(江戸の水軍の責任者)
御納戸頭(将軍の身の回りの物を管理する責任者)
御腰物奉行(将軍の刀剣を管理する責任者)
御鷹匠頭(将軍の鷹を管理する鷹匠の責任者)
勘定吟味役(幕府財政を監査する役)
                       など

目付は,幕臣の監察にあたる役職であり,老中や若年寄の手足として様々な諮問に与り,同僚の素行調査なども命じられた。旗本は五千人ほどもいるが,その中でわずかに十人しかいない。格式として布衣役の上にあるい遠国奉行などの諸大夫役も,目付から昇進する者が多かった。


御徒

御徒や鉄砲組同心など下級幕臣の屋敷地は,「組屋敷」に組単位であたえられた。御徒一人あたりの屋敷地は,本所錦糸堀で二百坪,深川元町で百三十坪ほどあった。下谷は百坪であった。家作は自費であったため,玄関三畳に,八畳と六畳,それに台所と雪隠で,建坪が二十坪ほどの家であった。残りは畑にして野菜を栽培したり,地代を取って人に貸したりした。地代は,百三十坪で年間三両三分だった。

徒士組は,全部で二十組あり,一組三十人で,そのうち二人を組頭に任じて組の取締にあたらせた。組を指揮する徒頭には,両番家筋の旗本が任じられた。

徒士の世禄(代々与えられる家禄)は,七十俵五人扶持である。一俵は三斗五升入りだから,米約二十五石である。百俵につき四十両ほどなので,約二十八両ほどの収入である。
五人扶持は,一人扶持が一日玄米五合だから年間約九石である。

これらの米は,幕府の米蔵から支給されるが,三分の二は幕府公定の相場(御張紙値段)によって現金で支給され,残りの三分の一が米で支給された。この米も,自家で消費する分を除いて換金する。これらの仕事をする業者が「札差」である。

御徒の公務は,将軍の外出に随行してその警備にあたるものである。そのため,徒士は黒縮緬の羽織を支給され,公務で外出する時は,これを着用した。もし不測の事態が起こったとき,将軍は随行している御徒の中に身を隠すことになっていたからだ。

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2010年09月10日

百姓一揆と打ちこわし

貧農史観によって描かれた江戸時代の百姓は,重い年貢に苦しみながら朝早くから夜遅くまで働き,米を食べることもできず,稗や粟など雑穀で飢えをしのいだ極貧生活がイメージされるだろう。一昔前の時代劇に登場する百姓は,「カムイ伝」に描かれた貧しい百姓と似たような描写が普通であった。そして,教科書にも,家康の「百姓は生かさぬように,殺さぬように」に言葉のもとで,過酷な労働と貧しい生活,権力者・支配者である領主・武士に搾取される身分として百姓が書かれていた。資料集には,継ぎ布をあてた服を着た百姓がイラストで描かれていた。(これは今もそうだが)

しかし,近年の歴史研究によって,江戸時代は大幅に見直され,多面的な考察による新しい歴史像が描かれるようになった。「継ぎ布」を貧しくて服を新調できないと解釈するか,農作業に適するよう補強のために布をあてたと解釈するかによって,先ほどの資料集に描かれた百姓のイメージ大きく異なるだろう。


「本途物成」といわれる本年貢は,村全体の石高に対して課税され,各戸に分担を割り当てて徴収し,領主である大名や旗本などに納める「村請制」であった。この年貢率は,通常「五公五民」とか「四公六民」のように,生産物の40〜50%であった。しかし,実際はもっと少なかった。

17世紀後半,元禄期以降,ほとんど検地を行っておらず,年貢算定の基準となる年貢高もそのままになっている。しかし,元禄期以降,日本の農業は集約型農法を取り入れ,生産力は飛躍的に向上する。また,商品作物や手工業製品の生産も盛んになり,農民の実質的な収入は増えていった。このため,百姓の実質的な収入のうち,税としての年貢は十数%にしかならないのである。

百姓は,全人口の80%以上を占め,50〜100戸からなる村に住み,室町時代からの惣の伝統を受けついで山野・用水を共同で管理し,田植えなどの農作業を助け合いました。村には,土地をもつ本百姓と,土地をもたない水呑百姓との区別があり,本百姓のなかから庄屋(名主)・組頭・百姓代などの村役人を出し,寄合によって村を運営しました。

(『中学社会 歴史的分野』大阪書籍)

中学校の教科書では,本百姓と水呑百姓を「土地」所有の有無で区別しているとしか書いておらず,くわしい相違についての説明はない。高校の教科書では,「水呑百姓」について「村内には田・畑を持たず,地主のもとで小作を営んだり,日用(日雇)仕事に従事する水呑(無高)」(『詳説日本史B』山川出版)と記述されている。

未だ従前の「貧農史観」による,貧しく惨めな百姓観から書かれている。自分の田畑がないので地主から借りて耕作し高い小作料を支払っているため,日雇いにも行かなければ生活できないほど貧しい,というイメージを想像してしまう。

これも一面的な解釈,固定観念からの思い込みである。「田畑を持たない」は,農業が「生業」であることを前提としての理解である。農業する必要がない場合,農業意外に「生業」を持っている場合が欠落している。つまり,百姓=農民という「士農工商」を身分制度とした歴史認識が生み出した誤謬の延長上に,このような歴史錯誤が生じたのである。

網野善彦氏が調査した能登の時国家は,農業だけではなく廻船業や金融業,製塩業,鉱山業,山林の経営など多角的な事業をおこなっていた。時国家も親類も裕福な商人であるが,身分上は「水呑」であった。つまり,田畑が持てないのではなく,持つ必要のない豪商であった。さらに,時国家の「下人」と表記された友之助が,北前船の大船頭であり,千両という大金を動かすことができる立場にあった。

農村に居住しながら,農業以外の生業持ち,田畑を所有しない「百姓」身分の人々(幕府領では「水呑」であるが,藩によって身分呼称は異なっている)も多くいたのである。ただし,地主から田畑を借りて耕作する貧農の小作人が多くいたことも事実である。


18世紀後半から急速に農村に貨幣経済が浸透してきた結果,農民は茶や漆,桑などの商品作物を栽培して現金収入を得るようになる。こうして得た貨幣を貯めて土地を買い,やがて地主となり豪農となっていく者もあらわれてきた。しかし,農民がすべて勤勉であったわけでない。これは何も農民に限ったことではない。

農村に流れ込む貨幣を目的に,各地の都市から行商人が入ってくるようになる。芸人も興業をおこなうようになる。農村に商品経済が入り,娯楽も増えていくことで,博打や犯罪も増えていった。こうした状況の中,豪農になる者がいる一方で,堕落した生活で身を持ち崩した農民や,度重なる飢饉などで農産物が減少し,年貢も支払えず生活も貧窮化し,ついには高利貸しに借金を重ねて土地を手放して小作人や浮浪者となる農民も多くうまれた。つまり,貨幣経済の浸透が農村における階層分化を助長・拡大させたのである。


百姓一揆の際に,農民たち参加者が手にしていた「得者」(道具)は,鎌・棒・竹槍・斧・鉞などであるが,その中でも鎌の所持が圧倒的に多かった。これらの得者を所持する目的について,従来は家屋の打ち壊しの際の道具や領主や村役人との戦闘に対しての自衛手段と考えられてきた。

しかし近年の研究によると,打ち壊しにも殺生にも適さない鎌の所持から,百姓という自らを示すシンボルとして所持されていたと考えられている。百姓一揆を象徴する出立ちである「蓑笠」も同様のことが指摘されている。会津藩の一揆史料では,蓑笠を「百姓相応之風俗」と表現している。大和国の柳生領一揆では,「百姓之事故蓑笠ニて願出」と,百姓だから蓑笠で出願するのだと書き残されている。竹槍も鎌と同様に,殺生が目的ではない。しかし,明治維新後の一揆では竹槍による殺害が相次いでいる。岡山の解放令反対一揆でも竹槍による殺傷はおこっている。

百姓一揆に関する教科書記述には,必ず「からかさ連判状」が紹介される。一揆の首謀者を隠すためと説明されてきた。

此文言を丸き残の真中へ丸く書,何れが始終と知れさる様ニ認メ候由,是を車廻状とか申候

この一文は,貞享三年(1686)に信濃国松本藩で起きた加助騒動のときの「訴訟之事控」である。「からかさ」ではなく,本来の名称は「くるま連判」である。また,「何れが始終と知れさる様」も,首謀者を隠すことではなく,連判署名者の上下関係が存在しないことを表現するためであったと考えられている。車廻状には,宛名である大惣代の名前が書かれていることも多い。

つまり,大惣代への忠誠を誓う意味があったと考えられている。


打ちこわしを行った貧しい百姓や都市の貧民たちは,米屋や豪商の家屋を無闇矢鱈に破壊したのではない。彼らは,規律に基づいた打ちこわしのルールに則って,破壊行為を行っている。

天明三年(1783)の大飢饉は,数年前より東北地方での冷夏による凶作に加え,浅間山の噴火によって煙と灰におおわれたため日照時間が少なく気温も低下して農産物が生育できず,大凶作となったことに起因する。

このため米価は高騰し続け,買い占めをする米商人により状況はさらに悪化した。天明七年五月,深川六間堀町に住む提灯張り職人らが米商店を襲った。同じ頃,江戸の他の地域でも貧民層を中心に打ちこわしが起こり,江戸全域に拡がっていった。

打ちこわしに関する諸記録から,そのルールを拾い出してみる。

まず,火付けの厳禁である。自分たちを苦しめている米商人や富裕な商人への制裁が目的であるため,関係ない隣家まで巻き込む危険性のある放火は規制したのである。
次に,盗みなどの厳禁である。飢餓状態にある打ちこわし参加者にとって,撒き散らした米は欲しかったはずであるし,現金も欲しかっただろう。しかし,彼らは盗みを働く者への制裁を決めて厳守している。
ただの破壊行為ではなく,自分たちを苦しめている者への社会的制裁が目的であることが参加者に徹底されていたのであり,無秩序な暴徒でないことが民衆の共感を得ることを知っていたのである。

打ちこわしの対象も,地域によって異なっている。米屋だけでなく,質屋や売女屋,旅籠屋も襲われている。さらには,百姓一揆の際に「契状」(規律)を守らなかった家も打ちこわされている。


従来の歴史解釈が随分と見直されてきている。部落史の見直しとの相補的な研究により,その成果はさらに進展することだろう。そして,それら研究成果は,遅ればせながら教科書に反映されていく。ここ十数年の間でも,教科書記述は大きく変わってきた。教科書の改訂は4年ごとに行われるが,記述内容はそれ以前の研究成果しか反映されない。場合によっては,数度の改訂でも見直されることのない記述もある。


教科書を教えるのが教師という思い込みや,文科省という国家権力と教育委員会に規制されて何もできない立場にあるという先入観から教育現場を想像する人間もいるが,「学習指導要領」を一度でも読んだことがあればわかるはずだが,それほどに型にはまった規制があるわけではなく,むしろ自由裁量の幅は広い。私にしても,教科書記述にない内容や,新しい研究成果を踏まえた解釈を教えることも多い。教科書の指導書にも,さまざまな見方や考え方などが参考資料として紹介されてもいる。

ただし,断定的な価値判断だけはしないようにしている。なぜなら,言葉や表現によって,その受けとめ方や認識が大きく変わるからである。たとえば,「言う」と「豪語する」では,受け取る人間によって意味すらがちがってくることもある。

伝える人間の価値観や解釈が伝える言葉や表現に作用したり,あるがままを伝えず,恣意的に付加する言葉や表現によってそのままではなく別物を伝えてしまったりすることがある。まして,悪意があれば尚更だろう。曲解したうえに,歪曲して伝えれば,その解釈が悪意に満ちていたり,別の意図をもっていたりすれば,的外れどころかとんでもない誤謬と錯誤を招くことになり,無責任な結果を引き起こすことになる。中には,最初からそれが目的であるとしか思えない記述や,論破を目的に批判することだけに終始する論法もある。そのような文章が闊歩する中,結局は読む側の思考力や判断力が試されているのかも知れない。

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2010年08月24日

藩財政の窮乏化(2):御用方

山本博文氏の『参勤交代』に「江戸・京・大坂御用方の内実」として,寛永二十年の萩藩の収支を考察した一文がある。

萩藩など西国諸藩は,大坂と京都に蔵屋敷を設けていた。大阪蔵屋敷の機能は,福岡藩の事例で見ると,以下の通りになる。

@大坂蔵米の売却
A藩主参勤時の御用
B大坂町奉行・船手奉行らへの進物持参
C江戸・京・堺などからの使者の応対
D京都や方々への御用状の手配
E蔵屋敷の管理・修復

さて,寛永二十年の萩藩の収支についてまず指摘できることは「江戸御遣方」が千二百六十貫目と圧倒的な額に上がることである。

これは,江戸藩邸の維持費,幕府や諸大名への献上品・進物の経費,藩主の生活費などを含めた額である。これは,萩藩の現銀収入の半分以上を占める山代物成(山代紙に掛ける年貢)で充てられることになっていたが,この年は五百六十貫目の赤字である。

次に,江戸,京都,大坂,長崎からの借銀の利子が,五百九十一貫三百目になる。これは,物成米売却代銀と浦浜畠銀の合計よりも多い。萩藩の現銀収入は,この二口と山代物成であるから,萩藩の場合,江戸藩邸経費と借銀の利子だけで赤字になる。

同書には,江戸中期の松江藩財政の内訳も分析されているが,それによると,藩財政における俸禄の占める割合は45%と大きい。次に多いのは,江戸入用(江戸の経費)で,30%を占めている。これは,藩主の江戸での生活費のほか,江戸詰め藩士への手当,幕府や諸大名への献上品や進物の購入費,奥方の衣装費などである。因みに,同書にある萩藩の「藩主と奥方の小遣い」では,藩主が藩財政の2.8%,奥方が2.0%とそれほど多くはないが,これに「御裏様呉服代」が独立して,0.1%が加算される。この呉服代を石高にすれば七百二十五石余になり,1石1両で金に換算すれば七百二十五両,1両10万円としても7200万円になる。5年間の合計ではあるが,それでも国廻上使への接待費や朝鮮通信使への賄費よりも多いし,現代から考えても莫大な衣装費である。
一方,藩の経営費である国許入用は20%である。なお,藩士への俸禄を除いた可処分所得で割合を考えると,江戸入用は55%,京坂入用と合わせると60%近い。国許入用は35%,道中銀は5%である。

先の萩藩36万石の財政は,21万石ほどの蔵入地(直轄地)収入によってまかなっている。5年間の実質年貢収入は51万8707石余である。そのうち,「江戸・京・大坂御用方」は,5年間で33万7536石で,藩財政の59.5%に上がる。この中に,江戸屋敷の経営費用や参勤交代の費用,借銀の返済,諸方への進物などがすべて入っている。松江藩も同様のことと考えられる。


次に,将軍やその世子・御台所への献上物や老中への進物について,同書に加賀藩の事例が銀に換算して挙げられている。

御献上御進物(将軍へ)       34貫400目
御献上(御台所へ)            8貫700目
西丸御献上(将軍世子へ)     17貫400目
老中・側衆などへ              135貫目

これを合計すると,銀百九十五貫五百目,金にして三千二百五十八両という大金になる。道中の経費のほぼ半分ほどもかかっている。

ただし,これが藩財政を圧迫していたというわけではない。…将軍からは,献上の倍額に近い拝領品が下賜される。この献上と拝領は,それぞれの家の家格によって定められたもので,武鑑にも記され,周知のことになっている。

一方,額は小さいとはいえ老中や幕閣への進物に返礼はなく,数が多いだけに藩財政にある程度は影響を与えていた。

また,他藩領を通過する際の通行儀礼として藩主ならびに関係者への贈答も大きな出費ではあったが,宿泊代も大きかった。

同署に,文政元年(1818)に加賀前田家十二代藩主斉広が帰国する際,糸魚川宿に宿泊した時の記録が挙げられている。

銭 32貫800文 上  一泊200文
                      主人ほか       164人分

銭 93貫60文  中  一泊180文
                       中間・若党・鑓持等 517人分

銭214貫880文 下  一泊160文
                      小者・通し人足   1343人分

銭 17貫文 馬  一泊500文
                                     34疋分

銭 25貫200文 本陣 一泊280文 
                       藩主付きの者     90人分

銭 10貫文    本陣馬一泊500文
                                     20疋分

この合計が,392貫940文である。…一文を現在の25円として計算すると,上の宿屋で一泊二食付き5000円である。総額で,約二千人の人数と馬54疋の宿泊費は,約953万円である。道中を12日としても,1億円を超える額である。

参勤交代の意味は別として出費だけを考えても相当のムダと思うが,藩財政の窮乏は参勤交代が原因ではない。

結局は,江戸と国許との二重生活による莫大な出費と幕府に命じられる「天下普請」の負担であり,そのために札差などの商人から借りた巨額の借金とその利子が藩財政を窮乏化させたのである。

各藩の江戸屋敷における支出高は,生活維持費や家臣の手当など藩財政の4〜50%を占めていた。たとえば,延享四年(1747)の二十四万石の土佐山内家の全支出総額は銀二千六百三十三貫目(金では四万三千八百八十三両)で,このうち江戸屋敷の経費は銀千四百五十五貫目(金二万四千二百九十九両)と,55%となっている。同年の100万石の加賀前田藩は17万1600両,五万石の備中松山藩でも1万8000両を支出している。

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藩財政の窮乏化(1):天下普請と参勤交代

藩財政が刻々と窮乏化の途を辿ったことは,ほとんどすべての藩に共通する。岡山藩も例外ではない。池田光政の治世から大規模な新田開発,商品作物の奨励,特産品の専売制などにより相対的に幾分かは恵まれた条件にあったが,藩財政の現実は厳しいものであった。

薩摩藩は77万石の外様大名であるが,その第8代藩主島津重豪は自分の娘(茂)を将軍の御台所(正室)に送り,江戸の藩邸は高輪下にあったので高輪下将軍ともいわれていたが,同藩の財政は大赤字であった。三都(江戸・京都・大阪),南都(奈良)の商人からの借財の額は,500万両を超えていた。1石を1両と計算して,石高の6.5倍の借金である。この頃の金利は少なく見積もって1割2分,年に60万両の利息である。

安永5年(1776年)に三女の茂が将軍家斉に嫁いでから徳川家との姻戚関係にからんだ出費も多く,また重豪による藩校造士館や演武館などの設置,新規事業などの出費も多かったが,何よりも借財の大半は幕府から命じられた「天下普請」が要因であった。

幕府は,大名に全国の難工事を請け負わせ,その費用は各藩の財政から捻出させた。これを「天下普請」といい,造成地の開発,河川改修,堤防の建設,治水治山,道路拡張,城郭や寺院の修理などの難工事を諸大名,特に外様大名に割り当てられたのである。薩摩藩は木曽川治水工事,東海道沿線の河川拡張工事に,お手伝いと称した天下普請をまかせられていた。木曽川治水工事だけでも50万両がかかっている。

岡山県北の津山藩は老中柳沢吉保の奸計により「武蔵児玉郡中野村お犬小屋御普請」を下命された。総工費約四万三千両(1両20万円で,約86億円)である。津山藩は十八万六千五百石であるから,1石1両として年間収益約30〜38億円と考えても,年収の3倍近い額の出費である。約二ヶ月後,延べ人数約百万人の人夫,約一万頭の荷馬,二万七千輌の荷車や諸道具などを総動員して連日の突貫工事により,元禄八年十二月四日にお犬小屋は完成した。そして,津山藩に残ったのは三万両を超える莫大な借財であった。


さらに藩財政を苦しめたのが参勤交代と江戸屋敷の経費である。山本博文氏の『参勤交代』より抜粋して引用しておく。

参勤交代経費については,元金沢市立図書館の忠田敏男氏が,加賀藩を事例に紹介している(『参勤交代道中記』)。そこであげられているのは,@旅籠賃,A川越賃,B予約解約の時の補償金,C幕府要人への土産品の四点である。…幕府領や他藩の領内を通行する際にやってくる代官や使者への下賜品,藩主への贈答品など,それ以外にもさまざまな費用が掛かってくる。

忠田氏の紹介している「文化五年(1808)御帰国の御入用銀」によると,家臣への貸し金まで含めて総額銀三百三十二貫四百六十六匁余となっている。

支払いは,相手や金額により金,銀,銭で行っていたが,それらをすべて銀に換算したら三百三十二貫という数字になる。金一両は,銀六十匁で換算するから,これを金にして約五千五百四十一両である。

忠田氏は,これを次のようにいくつかの指標で現在の貨幣価値におきかえている。

@精米を物差しに当てた場合 四億二千六百六十四万円

A利息を物差しに当てた場合 五億三千万円

B手間賃・労賃を物差しに当てた場合 六億九千万円

同じく「文化五年(1808)御帰国の御入用銀」の中で,「二千九百六十七切 御供人へ被下金」という項目がある。これは供の藩士への手当で,金一切は一分金のことであるから,小判にして七百四十一両余となる。

供の藩士の宿泊費や食費などは当然藩が一括して支払ったであろうが,国許から江戸まで供をして一年間江戸に滞在するわけであるから,長旅の準備や自分の家来への手当,江戸での生活費など,物入りは多かった。このため,藩から身分や役職に応じて手当が支給されたのである。

秋田藩の『国典類抄』に,正徳四年(1714)春の参勤の時の山方泰護の記録がある。これによれば,随行する家老の渋江十兵衛に五十両もの手当を与えているのえお筆頭に,家老・用人クラスで十五両から三十両,物頭・御歩行頭・御納戸役に十五両,目付に二十五両,御側小姓に八両,大小姓に八両から十五両,大番士に八両といったように手当を支給している。

ここに揚げられている藩士の総数は八両支給の御側医師,一両一分支給の御茶屋坊主や御時計坊主,三両支給の御馬役などまで含めて百九人である。そのほか,御歩行が七十二人(一人一両一分),御茶屋者十人(一両一分),御足軽二百二十六人(一人二分),御中間九十六人(一人一分)などがある。

藩の直臣と藩直属の足軽・中間などを含めて四百人を越える人数になるが,その手当は小判にして千四百三十五両余となる。これは,仮に一両を現在の十万円として計算すると,一億四千三百五十万円となる。当然,このくらいの額は必要だったであろう。

参勤交代の行列は,藩の家臣やその家来(陪臣)だけで構成されていたわけではない。大名行列のほぼ三分の一は,通日雇と呼ばれる人足によって占められていた。通日雇は,参勤交代の荷物の運送を,国許から江戸まで通して請け負う人足のことで,六組飛脚問屋に加盟する専門の業者があった。

通日雇の日給銀十匁は,銀五十匁を十万円として換算すれば二万円,かなりの日当を取っていることになる。また,桑名藩の通日雇の経費は,金一両を十万円とすれば約七千六百四十万円となり,十万石ほどの中藩にしてみれば,かなりの出費であったことがわかる。

江戸初期は参勤交代の人数が多く,幕府はこれを削減するように命じているが,参勤の行列はその大名の格を誇示するものであるから,なかなか大名は人数を減らさなかった。秋田藩(久保田藩)は21万石である。一般に,薩摩藩や加賀藩などの大藩は数千人規模であるが,十万石程度の大名行列は,享保の頃は二百八十人くらいであるから,街道を通る大名の一団は百五十から三百人が最も多かった。

藩の規模に応じた大名行列ではあるが,参勤交代の諸費用の中で最大の出費であったのが,幕府への献上や諸大名との贈答慣行であり,これらは切り詰めることはできなかった。

ちなみに,前出の山本博文氏の『参勤交代』の「藩財政に占める参勤交代経費」によると,参勤交代諸費用は藩財政の中ではわずか数%である。参考例として「江戸時代中期の松江藩」について,次のように書かれている。

参勤交代に直接関わる費用である道中銀は,わずか三パーセント,京坂入用も二パーセントである。それほどの比率は占めていない。

ただし,「わずか三パーセント」と書いたが,銀三千六百四十貫を公定の金一両=銀六十匁として金に換算すると六千六十六両,一両十万円として現代の貨幣価値に直すと六億六百六十万円になる。これは,かなり巨額だと言ってよいだろう。

しかし,それを藩財政の中に置いて考えると,その占める割合は,案外に少ない。藩財政の規模は,それほど巨大なのである。

では,何が藩財政を圧迫し,困窮化させたのであろうか。

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2010年08月23日

江戸庶民の経済事情

NHK教育テレビで放送されている『知るを楽しむ−歴史に好奇心ー』を時折,興味深く視ている。そのテキストも何冊か持っているが,2007年8月・9月号の磯田道史氏「拝見・武士の家計簿」と石川英輔氏「江戸っ子に学ぶお金の使い方」は実におもしろく江戸時代を考察する上で参考になる。

石川英輔氏「江戸っ子に学ぶお金の使い方」に紹介・抜き書きされている『文政年間漫録』を転載してみる。

大工の収支

日当を銀五匁四分,年間の稼働日を二九四日とすれば,5.4×294=1587.6,つまり年収銀一貫五八七匁六分となる。支出は,夫婦と子供一人が食べる米を三石五斗四升として銀一貫三五四匁,家賃一二〇匁,調味料,薪炭など七○○匁,道具・家具一二○匁,衣服一二○匁,交際費一○○匁。合計一貫五一四匁だから,収入との差額つまり残る金が年間で七三匁六分になる。

野菜の行商人

六○○文か七○○文の元手を持ち,天秤棒につけた菜籠を担いで早朝に家を出る。かぶ菜,大根,蓮根,芋を仕入れて一日売り歩き,日が西に傾く頃に家に帰り着くと,菜籠の中には一にぎりぐらいの野菜が残っているが,これは翌朝の味噌汁の実にする。

家では妻と二人の子供が昼寝しているので,夫は家に入って菜籠を置き,かまどに薪をくべてから財布を取り出し,明日の元手を取りのけてから家賃分を竹筒に入れていると,目を覚ました妻が,米も味噌も醤油もないというので二五十文渡す。子供も菓子を買いたいというので一二,三文を与える。あとに残ったのは一○○文か二○○文程度だ。

これについて石川氏は次のように解説している。

一人前の大工は,日雇人足などより社会的地位が高いため,賃金はこのように銀勘定だが,実際の支払いは一匁=一○八文として銭つまり銅貨で支払ったそうだ。…

一年で一両ぐらい残った計算になる。

 …中略…

具体的な計算を示すと,平均すれば元手六五○文で,食費二五○文,菓子代一三文,家賃の日割分を二○文として合計二八三文のほかに一五○文残る。…

実際は,毎日一五○文の全額を残せないだろうから,手元に残ったのが半分だったとしても,三両か四両だ。しかも,この男には妻と二人の子供がいる。文政年間(1818〜30)頃,江戸の女性人口は男性人口より二○パーセントぐらい少なかったから,結婚できない男が大勢いた。…

『文政年間漫録』の著者は,これをぎりぎりの生活をしている例としてあげているが,天秤棒に野菜籠をつけて売り歩いていても,三人の家族を養ってなおこれだけ残った。

江戸の庶民が働く気にさえなればそこそこの収入があり安楽に暮らすことができた理由のひとつに,衣食住の費用が安かったことがある。着物は使い古すまで仕立て直しに染め直しができ,古着屋で安価な着物も買えた。主食の米価も一升が100文ぐらいだから安値だ。住居費も,長屋の家賃は平均で月額500文から600文程度で,大工の日当程度である。二階付きの長屋でも月に10匁で,二日分である。さらに,江戸は家事が多かったので家財道具は最小限にしていた。

教育費も寺子屋の月謝が月に200文くらいで,大工の日当の3分の1程度である。

税金に関してはほとんど払っていないといってもいいだろう。幕府の運上金・冥加金など商人に営業税を課すことがあったが,それも表に店を開いている商人が対象であった。また,土地に対する公役銀という固定資産税にしても,五小間=京間の100坪あたり一年間で銀30匁だった。銀30匁は大工の日当の五日分程度である。公役銀は,借地や借家の地代,家賃として細分化して分担したため,負担分はほとんどないに等しかった。江戸の庶民は金や物に対する執着心が薄かったともいえる。

江戸時代の庶民生活を収支から考えてみると,従来言われてきたような武士が贅沢三昧をして一般庶民が貧しく苦しい日々の生活を送っていたイメージとは実態がちがうことがわかる。これは人口が多く大消費都市であった江戸だからともいえるが,地方都市においてもそれほどの大差はないのではないだろうか。人口に合わせた生産−流通−消費の経済関係が成立しているはずだし,経済のシステムに大きな差もないはずだからだ。現在の東京や大阪と岡山の差ほどではないだろうか。どちらにしても,従来の歴史認識は,貧富の差,貧困,窮乏のイメージを強調しすぎていたように思う。

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2010年08月15日

時代考証

ちょっと前までの日本人は,江戸時代をあたかも暗黒の時代であるかのごとく思いこんでいました。
農民は重税に苦しめられ,士農工商という厳然たる身分制度にしばられ,さらに鎖国によって世界の進歩から取り残されてしまった。そんなイメージが一般的でした。
でも,それは完全に誤った認識なのです。

実は江戸時代の農民の税は現代よりも軽く,身分制度もけっこういいかげんなものだったのです。実際,庶民でもお金を出せば武士になれましたから。また,貿易額は膨大で,海外交流もかなり盛んに行われていました。
つまり,けっして息苦しい世の中ではなかったのです。だからこそ,260年という気の遠くなるような長期間,江戸幕府は政権をにぎりつづけることができたわけです。

では,どうして,マイナスイメージがつくられてしまったのでしょう。
おそらくそれは,幕府を倒した明治政府の戦略でしょう。前政権をおとしめ,暴政だったと喧伝することで,新しい政権の正当性を国民に納得させようとしたのではないでしょうか。さらにそれを,明治時代の御用学者たちが,史実であるかのごとく語ったため,江戸時代=暗黒時代といった固定観念が定着してしまったのだと思われます。

これは,『世界一おもしろい江戸の授業』(河合敦)の「はじめに」の一文である。

「部落史の見直し」によって教科書における部落史関連の記述が大きく改訂されたが,実は歴史教科書そのものも見直されてきている。未だ十分に反映されてはいないが,江戸時代ブームを背景に,今まで定説のように教科書に記述されてきた事柄がまちがっていたり,別の解釈があったりと,歴史の新事実や新しい歴史観によって歴史そのものが見直されている。特に,今までの教科書による歴史認識が政治史中心で,政治や出来事の解説であったのに対して,民衆史からの生活や文化を中心とした歴史が語られるようになり,従来の歴史像が大きく転換されてきたように思う。

この1年ほど,部落史の背景を知る目的で買い集めた歴史関係,特に江戸時代についての雑学的な書物から意外なほどに学ぶことが多かった。これら江戸時代に関する雑学的な書物などを<寄せ集めて>まとめてみようと思う。寄せ集めであれ何であれ,それらを集成したものが歴史である以上,総体的に歴史をとらえるための大切な基礎知識であると思う。

山本博文氏や中江克己氏の著作,歴史の謎を探る会編『江戸のしきたり』『江戸の商い』など,また石川英輔氏の『大江戸庶民事情』等を材料(参考)に,江戸時代の「寄せ鍋」を料理してみよう。


江戸時代中期,江戸の人口は100万人を超えていたと推定される。半分は武士であったが,残りの半分は商人や職人といった町人であった。しかし,居住地は,武家地が69%を占め,ほかに寺社地が15%を占めていたため,町地は16%しかなかった。

武家地には,一万石の大名でも2500坪はある大名屋敷から旗本,わずか100石でも300坪はあった御家人の屋敷まで広大な屋敷があった。町人のなかにも表通りに面した表店と呼ぶ広い屋敷に住む者もいたが,大半の町人は裏通りにつくられた裏店(裏長屋)と称する粗末な共同集合住宅に住んでいた。

長屋は,長方形の棟に6部屋が基本になって,一部屋の広さは台所と土間を含めて六畳一間,もちろん風呂とトイレは付いていなかった。六畳のうちの一畳半は土間になっていて,ここに竈と台所がおかれ,板敷きの四畳半の隅には蒲団などの荷物がまとめてあった。実際の居住空間は三畳ほどだと思われる。隣とは薄い板壁で,柱も細く,屋根は柿板(こけらいた)葺きであった。

たいていの長屋は,2棟セットで向かい合って建てられ,1メートルの路地の真ん中に下水が流れ,邑久に共同便所や井戸があった。

長屋の家賃は,一般的には1000文(1文=50円とすれば5万円)程度だった。なかには棟割長屋という通常の六畳一間をさらに半分に仕切って貸す場合もあった。家賃は300文くらいであった。

江戸の町数は,正徳三(1713)年頃に933町あったという。これだけの広範囲を江戸町奉行配下の与力(各25人)・同心(各120人)で治安を維持するのはたいへんなことであった。そこで,幕府がとった政策が「町人による自治組織」である。町人の中より選んだ「町年寄」三人を頂点にして,その下に「町名主」・「家主」というようにピラミッド型の管理システムによる自治組織を整えたのである。

町年寄は,徳川家が江戸を領国としたころより縁の深い「奈良屋・樽屋・喜多村」の三つの商家が世襲制でつとめた。町年寄は,町人ながら苗字帯刀が許され,正月には登城・将軍拝謁ができるほど家格が高く,町政全体を統括する立場であった。

「奈良屋」は三町年寄の筆頭で,出身地である奈良を屋号にした。本姓は小笠原氏で,初代の小笠原小太郎は,天正十年(1582)の本能寺の変の際に,家康が「伊賀越え」でにげたときの功労者である。

「樽屋」の先祖は三河以来の旗本である。徳川家と同郷の三河城主水野氏の出身で,水野弥吉と称した。三方ヶ原の合戦で戦功があり,家康から「樽三四郎」の名を賜り,家康の江戸入国で町人支配役となった。

「喜多村家」の初代は家康とともに江戸に入国して町人支配を命じられた文五郎である。「御馬御飼料御用」と「関八州連雀商札座」「長崎意図割符年寄」を兼ねていた。つまり,幕府の馬草と行商人,輸入糸の取締を一手に引き受けていた。二代目は,婿の彦右衛門で,加賀の薬種商と廻船業の家の出身であり,家康が加賀藩主前田利家に依頼して登用した。

これら町年寄の仕事は,政令(お触れ)の伝達,町奉行からの調査依頼,市中の土地の地割り,地代や運常勤の徴収と上納,各町の名主の任免,水道などの維持管理,等々がある。つまり,町奉行と町人の間にたって,江戸の行政と治安維持を担当していたのである。

町年寄は正月三日に,無官の大名とともに江戸城に登城して将軍にお目見えした。譜代大名の席である「帝鑑間」の敷居外に詰め,そこから正面に進んで,献上物を前にして将軍に拝謁した。

町名主も多くは世襲で,担当する町の町政に関する実務を担当した。奉行所が出す通達(町触れ)を伝達したり,人別帳の作成・管理,不動産の登記,町人の諍いの調停などをしたりした。人数は約200人くらいで,いくつかの町を兼ねていた。町年寄が大店の主人であるのに対して,町名主は専業で,ほかに仕事を持たなかった。自宅を開放して町政を司り,町費から手当が支払われた。また,全員が同格ではなく,草創(くさわけ:元土豪)・古町(こちょう:江戸開府以来の者)・平(ひら)・門前(もんぜん)という四ランクに分けられていた。

土地売り渡し証文を「沽券」という。今日の「沽券にかかわる」という言葉は,「沽券」を持った町人身分であることに由来する。

町年寄・町名主の他に,町内に家屋敷を持つ「家持」,他の町内に居住し町内に屋敷地を持つ「地主」がいた。これらの人々が正規の町人であり,幕府への奉公である国役や,人足役である公役を屋敷地の間口の広さに応じて分担し,町を運営する町入用費を負担した。貸家や裏店住まいの商人や職人は,正式な町人ではないので税負担はなかった。

家主は,貸家の管理者である大家(家守)がつとめた。長屋の持ち主から建物や住人の管理を任された雇い人として,店子から家賃を徴収したり賃貸借契約をしたり,建物の維持管理や修繕をおこなった。また,町奉行配下の町役人として,人別帳にかかわる店子の状態を把握し,通行手形発行など願い出の取り次ぎも行った。店子から犯罪者が出ると管理責任を問われるため,店子の面倒と監視は義務でもあった。

大家の収入は長屋の持ち主からもらう給料であるが,他に「共同トイレ」の屎尿を農家に売って得る代金も収入であった。十軒長屋には二つの共同トイレがあり,「総後架(上方は雪隠)」といったが,一年の屎尿が5両になったそうである。

大家たちによって組織された自治組織が「五人組」で,本来は地主たちが組織するものだが,大家たちに代行させていた。五人組は,ふだんは自身番屋という町内に設けられた番所に当番制(月番)で詰め,町名主の代役として町内の政務を行った。これを「月行事」という。大家までが「町役人」とされた。

具体的な用務は,町名主からのお触れを町内に伝達,訴訟や届け出の確認,検使や見分の立ち会い,罪人や囚人の預かり,火消し人足の差配,町内の整備,火の番,夜回りなどである。

この大家の人数は二万百十七人と決まっていた。欠員が出たときは「大家株」を買って仲間入りすることもできた。この株の値段は,差配する長屋の規模によって,二十両から二百両と幅があった。百両の株の規模の大家は,地主から二十両の給金がでた。さらに長屋の住民が引っ越してくると,三ヶ月分の家賃を礼金として受け取った。


江戸時代に藩という呼称はなかった。国や城下町の名,藩主の姓などで領国を呼んでいた。藩という言葉は,古代中国の諸侯たちが自分の領国を「藩屏」と称したのが始まりで,江戸時代半ばより一部の学者が使うようになったが一般には広まらなかった。

藩を使うようになったのは,明治政府が大名の領地とその支配機構を「藩」と公称したのが始まりである。

posted by 藤田孝志 at 16:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史認識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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